不穏な動き(2)

 日垣は、「さっき顔を出した会議で、某大国絡みの話が出ていたから」と言って、政情不安が懸念される某大国の最新情勢と統合情報局側の今後の対応に関する話を始めた。

 美紗は、パソコンのモニターに隠れるように縮こまりながら、留意事項をメモした。真正面に座る日垣貴仁と目を合わせるのは、どうにも落ち着かない。


「……今の段階では、情勢が一気に悪化する方向にはいかないだろうという見解だが、4部ではすでに休暇中の幹部を順次自宅待機させているそうだ。現地で何もなくても、関係省庁からの情報要求はそれなりに入ってくるだろうしな。宮崎さん、そういう話、内局あたりから聞こえてる?」


 日垣に問われた宮崎は、銀縁眼鏡を光らせて表情を引き締めた。


「まだ不確かですが、うちから首相官邸に直接報告に行く可能性も無きにしも非ず、のようですね」


 全く身近でない組織名に、小坂が素っ頓狂な声を出した。


「ホントに? 宮崎さん、さっきの電話、そんな話だったんですか?」

「まだ『感触』のレベルだけど」

「政府は何かアクション起こすつもりなんですかね。そんな動き、出てるんですか?」


 興奮気味の小坂に、宮崎は、「さあ……」とだけ返し、パソコンのキーボードを叩き始めた。

 代わりに、佐伯がひょろりと上半身を乗り出した。


「お隣の人のやっていることをむやみに聞いてはいけませんと、着任研修で習いませんでしたか?」


 またもや幼稚園の先生を思わせる滑稽な口ぶりに、高峰と宮崎が失笑する。しかし小坂は、神妙な顔で「すいません」と頭を下げた。

 情報業務に携わる部署では、「一人一担当」が基本だ。たとえ同じ「シマ」に属する者同士でも、上官以外の相手に己の業務内容を不用意に教えることはしない。ましてや、他人の仕事にむやみに首を突っ込むような言動は、いらぬ誤解を避ける上でも、慎むことが求められていた。



「宮崎さんのネットワークは、広い上に、極秘のネタが多いからなあ」


 佐伯の話を継いだ高峰は、のんきそうに口ひげを撫でた。


「我々は、『見ざる聞かざる』で待っているほうが、いろいろと身のためさ」

「そうですか……。はあ、なんか、恐ろしいですねえ」

「別に恐ろしくはないよ。何も知らなければ、どこかでいらんことをぽろっと喋って捕まることもないわけだし?」

「捕まる? 何か、そんな前例あるんですか?」


 眉を八の字にして情けない声を出す小坂の横で、美紗はゴクリと唾を飲んだ。


 直轄チームの中で最も「極秘の立場」にあるのは、当の高峰だ。彼はいまだに、公にできない「対テロ連絡準備室」に籍を置き、第1部長の日垣と共に秘匿性の高い仕事に関わっている。

 情報局内でそのことを知るのは、前任の比留川2等海佐から申し送りを受けたであろう直轄班長の松永、そして、本来は知る立場になかったはずの鈴置美紗だけだ。



「統合情報局では、『主犯格』の人間は今のところは出ていないな。ただ、警察沙汰になった事案の関係者としてうちの人間が内々に処分されたって噂は、いくつか聞くよ」


 高峰の話に、小坂の顔色はますます悪くなった。


「処分……って、どういう?」

「ある日突然の依願退職、急な長期療養、それから、妙な時期に畑違いの部署に異動、ってとこだな。そういうのがあると、『あいつ保全問題でも起こしたんかな』って噂が立つ」

「噂の真偽は、……やっぱり追求しないのが、暗黙のルールですか?」

「まあ、そうだねえ」


 高峰がニヤリと笑みを浮かべると、小坂は「やっぱり恐ろし……」と呟いて、すっかり小さくなった。それにつられるように、美紗も身を固くした。


 もみ消された保全問題。あれから、もうすぐ一年が経つ――。



「ああ、噂と言えば」


 穏やかならぬ回想を止めたのは、佐伯の声だった。


「日垣1佐。全く別件ですが、妙な噂を聞いたんですがね」

「噂?」


 日垣が応じると、高峰と宮崎も話に入ってきた。


「ああ私も、伺わなければと思っていたんですよ」

「それ、先週から出回ってる話ですよね。日垣1佐が……」


 八嶋香織と廊下で……。十日ほど前にエレベーターホールの近くで目撃した二人の姿が、あの時に背筋を伝った嫌な感覚が、突然、蘇る。


「あの、それ、違うんです!」


 思わず立ち上がった美紗の手が、パソコンの右側に置いてあったコップに当たった。使い捨ての軽い容器が跳ね飛ぶように倒れ、中に残っていた茶色い液体が周囲に流れ出る。それとほとんど同時に、右隣の小坂が甲高い叫び声を上げた。


「うわあ何すんだっ! 俺の近くにコーヒー置くなよっ!」


 ずんぐり体形からは想像しがたい素早さで飛びのいた3等海佐は、大騒ぎしながら自身の着る制服を隅々まで点検した。首元からつま先まで真っ白な夏服を着る海上自衛官にとって、コーヒー染みは大敵だ。


「すみません! あの、クリーニング……」

「いいから、これ使えっ」


 珍しく声を荒げた小坂は、自席のパソコンモニターの後ろから白い塊を取り出し、狼狽する美紗に投げつけた。美紗の手の中に飛び込んで来たのは、新品のトイレットペーパーだった。


「なんでそんなものがここにあるんですか」


 あからさまに嫌そうな顔をする佐伯に、小坂は一転して愛想のいい笑顔を浮かべた。


「これ、なかなか使えますよ。吸い取りいいし、洗う手間なくどんどん拭けますから。応急処置にはもってこいです」


「しかし、品がない」

「しかも、エコじゃない」


 高峰も佐伯に加勢したが、調子のいい3等海佐は悪びれもせず、

「有事には即応力がなにより重要です。現にこうして役立ってますでしょ?」

 と言い残し、バタバタと部屋の外に走っていった。


 呆れる二人の横で、日垣は前髪に手をやりながらクスリと笑った。


 美紗は彼の視線から逃れるように下を向き、コーヒーで汚れた机の上を拭いた。幸い、自席のパソコンと小坂が机上に置いていた書類には被害がなかったが、自分でも泣きそうな顔になっているのが分かった。想いを寄せる相手の目の前で、トイレットペーパーを片手に粗相の後始末をするのは、なんとも惨めだ。


 しかし、日垣の視線は、小坂のパソコンモニターの裏側に積まれた数個のトイレットペーパーに向けられていた。


「予備もあるとは、彼、ずいぶん用意がいいね。これも、海自の『伝統』?」

「『墨守ぼくしゅ』するには、ずいぶんと下世話な伝統ですなあ」


 日垣と高峰のジョークに、佐伯は「冗談じゃない」と言って顔をしかめた。

 本来、「伝統墨守・唯我ゆいが独尊どくそん」というフレーズで使われることの多いこの言葉は、旧海軍の組織構成をほぼそのまま引き継ぎ昔の気質を色濃く残す海上自衛隊の雰囲気を、良くも悪くも、端的に表現したものである。



「あいつは、海自始まって以来の変わり者です」


 小坂と同じ白い制服を着る佐伯は、日垣に念を押すかのように断言した。


「若い部下には、返ってウケがいいんじゃないかな? まあ、もう少し落ち着いてくれないと、指揮官としては心細いところだろうが……」

「すみませんね。私の指導が至りませんで」


 その言葉が終わらないうちに、当の小坂は再び騒がしい足音を立てて戻ってきた。美紗に絞った雑巾を差し出しながら「やっぱ、まだ夏バテなんじゃないの?」と話しかける彼の声は、もう怒ってはいなかった。


「手伝えなくって悪いな。制服に染みがついたら、外歩けなくなるから」

「いえ……。私のほうこそ、本当にすみません」


 美紗は、タイルカーペットの床に座り込んで、コーヒー染みに雑巾をあてた。小柄な体が背を丸めて床を拭く姿を気の毒そうに見やった小坂は、ややあって、思い出したように「ああ」と大きな声を出した。


「で、何の話でしたっけ?」

「総務課の吉谷女史が異動なのかって話を聞くところだったんだ」


 佐伯は、騒がしい後輩の問いにため息交じりに答えると、第1部長のほうに向きなおった。


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