噂のカウンターパート(1)
「この案件、本当にあなたが担当?」
このセリフを言われるのは、もう五度目だ。六、七十人ほどが忙しく立ち働く広い部屋の中で、怒りを含むその言葉はやけに大きく聞こえた。
美紗は消え入りそうな声で「そうです」と返すしかなかった。もともと実年齢よりかなり子供っぽい顔立ちが、さらに頼りない表情になった。
国の対外情報活動を一手に取り仕切る防衛省統合情報局第1部で、部長室に一番近いところに陣取る第1部長直轄チーム、通称「直轄ジマ」は、いささか険悪な雰囲気に包まれていた。
その中心にいたのは、地味な紺色のビジネススーツを着た鈴置美紗だった。
「今更『対応できません』って言われても困るんだよ、こっちも。人があれだけいてなんでできないのかよく分からんけど、できないならできないで早く回答してもらわないと」
強い口調で美紗に文句を並べていたのは、直轄チームで先任(チームのNo.2)を務める
在席していた他の四人のメンバーは、仕事をするフリをしながら、少佐クラスに相当する四十近い陸自幹部と小柄な若い女性職員とのやり取りに、聞き耳を立てていた。
「業務調整は子供の使いじゃないんだ。こっちの話を持って帰ったら、そっちで必要人員を見積もって確保する。そういうことだろ? 入って数年のペーペーじゃあるまいし、一体何やってんだ」
イガグリ頭が一方的に喋る脇で、他のメンバーが互いにひそひそと話した。
「今に始まったことじゃないけど、彼女のいる業務支援隊、組織ごと動き悪いよな」
「五時ちょっとでも過ぎるといなくなっちゃうし」
「調整担当替えてくれって向こうの幹部に言ったの、先月だったっけ? 全然対応なしってことなんだねえ」
七つの机が一つの島のように固まって並ぶ「直轄ジマ」で、美紗は孤立無援の状態でぽつんと立っていた。
大学卒業後、防衛省に語学系の事務官として入った鈴置美紗は、海外文書の翻訳や種々の資料作成など、中央機関の補佐的役割を担う「業務支援隊」と呼ばれる部署に配属された。
民間企業で海外に駐在した経験を持つか、海外の大学院に留学したなどといった、目立つ経歴のある人間は、採用後すぐに組織中枢に配属されるのが常だった。しかし、そのどちらにも当てはまらない美紗は、より下位の組織の一つに配置され、そこからキャリアをスタートさせることになった。
美紗は特にキャリア志向ではなかった。景気が良くない時勢に、特に秀でた能力も資格も持たない学部卒の自分が公的機関に職を得られた幸運に、十分満足していた。一年目は、情報データの入力やファイル整理といった雑用が課業時間の大半を占めるのも、新人として当然のことと思っていた。
しかし、二年目も後半になって、美紗は実社会が必ずしも公平ではないことを思い知った。
同時期に配置された男性職員は次々と中央機関へ転属して本格的にキャリアを積み始める。さらには、一年あとに入ってきた者たちが、美紗を差し置いて特定の仕事を任される。
所属科で雑用係として扱われる美紗には、キャリアアップに必要な研修を受ける話すら全く来なかった。
うすうす、自分の管理者が女性のキャリアパスを軽視するタイプの人間であることを察した。自分の前任の女性職員が同様の処遇を嫌って転職していったらしい、という噂も聞いた。
三年目に入ってすぐ、美紗は「もっと経験を積みたい」と自分の上司に要望を出した。「女はどうせ……」が口癖だった管理者は、意外にも、上位組織である統合情報局との調整役を美紗に任せることを決めた。これまで中級幹部である
当初こそ、美紗は単純に喜んだ。しかし、業務調整ともなれば、自身が所属する組織の人的資源を計算しながら調整先の業務依頼を引き受け、さらにその依頼内容に合わせて関係各所に仕事を振り分けて、期日までに所定の結果を達成できるよう、全般的に取り仕切っていかなければならない。
勤め始めてわずか三年目の、当時二四歳の若手職員が、誰の助けも借りずに一人でスムーズにこなせる仕事ではなかった。
つまるところ、上司の巧妙な『若手潰し』という嫌がらせだったのだが、経験の浅い美紗は、それに気付くこともなく、何ひとつ思い通りにならない状況の中で右往左往する日々を、数か月も続けていた。
青を基調とした制服を着る二十歳ほど年上の彼と初めて出会った、この日まで――。
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