休暇の予定
七月末になると、普段騒がしい「直轄ジマ」は少し静かになった。メンバーが交代で夏季休暇を取るため、この時期から九月初旬までの間は、たいてい一人か二人は不在になるからだ。
多くの者が長期休暇を取る盆正月は、美紗にとっては、憂鬱な期間でしかなかった。自分には帰省する場所がない。海外旅行などに行く余裕もない。
そしてなにより、適当な嘘をついて、長期休暇を取らない理由を周囲に説明しなければならないのが、辛かった。
今回は、片桐1等空尉が八月後半に指揮
「鈴置はどうすんだ。予定まだ決まらんのか」
班長席の傍に立つ美紗に、イガグリ頭の松永はやや顔をしかめた。
「夏季休暇だから、一週間ダーっと休んでいいんだぞ。この前の正月もろくに休み取ってなかっただろ」
「片桐1尉が戻ってきた時に、お休みをいただければいいですから」
「それじゃあ、片桐にはかえってプレッシャーだねえ」
美紗と松永のやり取りを聞いていた高峰が、口ひげをいじりながら左隣の空席をちらりと見やった。
当の片桐は、第1部長室に入っていた。日垣から最後の受験指導を受けているようだった。
「あいつの試験が終わるの待ってたら、自分の休みは九月になっちまうぞ。その時期に旅行にでも行くってんならいいが」
「特に遠出する予定はありません」
美紗は早くこの話を終わらせて自席に戻りたかったが、面倒見のいい2等陸佐は、時々お節介だった。
「だったら、早めに取れ。休みってのは、基本、前段に取るもんだ。夏季休暇は七月後半から九月前半までの間しか取れないからな。先に休み入れとけば、もし急に仕事が入っても後で取り直せばいいが、後段に休暇入れてそこで緊急の仕事が来たら、完全にパアだ」
「それは言える」
すでに一週間の休暇を終えてすっかりリフレッシュした内局部員の宮崎が、銀縁眼鏡を少しあげて、ぼそりと呟いた。
「鈴置が片桐のことなんか気にかける必要はない。小坂を見習え。あいつ、後輩なんか全然気にしないで、さっさと休んでるだろうが」
松永の目線の先には、小ぎれいに片付いた無人の机があった。遠方の出身である小坂は、帰省に備えて早々に航空券を手配し、「シマ」の休暇予定表に真っ先に自身のスケジュールを書き入れる始末だった。
「すいませんね。私の指導が至りませんで」
小坂と同じ海上自衛隊に属する先任の佐伯が、ひょこりと頭を下げた。
「別にいいさ。実家の遠い奴が優先だ。そういえば鈴置は、実家は関東圏内だっけな?」
美紗は松永に「はい」と短く答えた。彼を含む直轄チームの誰にも、実家に帰らない理由を話したことはなかった。
失職という挫折で、もろくも無様な心を晒した父親。
娘の誕生に人生を狂わされたと本音を漏らした母親。
その二人に育てられながら、彼らを忌み、逃げ出した自分自身。
すべてが、醜い。
美紗の心に溜まる濁りを知るのは、日垣貴仁だけだった。その濁りを、彼はただ、黙って受け止めた。責めることも、正すことも、しなかった。
美紗が親の恩に報いる気持ちになれないことへの嫌悪感を吐露した時だけ、彼は人の親としての想いを静かに語っていた。
『子供の笑顔は、親にたくさんの幸せをくれる。親は、もらった分の幸せを、二十年以上かけて子供に返しているだけなんだ。残念ながら、世の中には、幸せを感じる力が弱い人間もいる。でも、それは当人たちの問題だ。子供の側が気に病む必要はないと思うよ』
いつもの店の、いつもの席で、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。そして、凝り固まっていた濁りが涙で洗い流されていくのを、ずっと見守ってくれた……。
急に沈黙した美紗を、松永は怪訝そうに見上げた。
「まあ、休暇は、基本的には自分の都合に合わせて取れ」
「でも……」
「とにかく、後段はお勧めしない」
「そう言う松永2佐も、また後段ですね」
「直轄ジマ」の休暇予定表を眺めていた佐伯が、小さく笑った。松永が率先して貧乏クジを引くのは、毎回のことだった。
「俺は別にいいんだよ。まあ、本当は八月上旬が良かったんだが、日垣1佐と俺が一緒にいなくなるわけにもいかんから」
仏頂面で口を尖らす松永の脇で、美紗は身を固くした。日垣の名前が出ると、つい意識してしまう。
「日垣1佐、なんでお盆の週じゃなくて、少し手前のトコで休み取るんでしょうね」
「奥さんが仕事そこしか休めないとか?」
美紗が心に抱いた疑問を、「シマ」の他のメンバーたちが先に尋ねてくれた。
松永は、「カミさんは働いてないそうだが……」と言いかけて、やおら身を乗り出し、第1部長室のほうに目をやった。そして、部屋のドアがきっちり閉まっているのを確認すると、少し声を落として話を続けた。
「八月の十日前後に家族全員の誕生日が重なってて、毎年、可能な限りそれに合わせて帰ってるんだとさ。自宅は本人の実家にもカミさんの実家にも近いらしいから、両方に顔出して、早めに墓参りして、混雑する前に戻ってこられる。一石三鳥ってとこだ」
「松永2佐は、それでいいんですか?」
「自宅の遠い奴が優先だ」
第1部長に休暇のスケジュールを譲る羽目になった松永は、小坂の話をしていた時と同じようなセリフを口にして、鼻からため息をついた。
「しかし珍しいよな。同期でトップを走るような人間は、どうしたって市ヶ谷勤務が多くなるのに、日垣1佐はなんでこっちに家建てなかったんだろ」
「東京をベースに地方に単身赴任するほうが、絶対いいですよねえ」
宮崎が松永の言葉に相槌を打つ。すると、直轄チーム最古参の高峰が、口ひげから手を離して、呟くように言った。
「カミさんが地元を離れたがらないらしいですね」
「そいつは……」
「気の毒ですね」
松永と佐伯が、そろって片方の眉をひくりと動かす。
「奥さんの実家の事情なんですかね」
「まあ、子供が中学に入る頃には、どこの家も単身赴任になりますけど」
「それにしても、自宅が地方じゃ単身赴任ばっかりになっちまうだろ? 地方の部隊っていったって、自宅に近い所に必ず勤務できるわけじゃないんだし」
「
在席する一同が声をひそめて疑問を口にしたが、高峰は、「さあ…」と言葉を濁し、それ以上は語らなかった。
会話が途切れたところで、松永は再び、美紗の休暇の件に話題を戻した。結局、彼に押し切られる形で、美紗は八月と九月に数日ずつの休暇を取ることになってしまった。
夏の予定など何もない美紗にとっては、自分の休暇より、第1部長のスケジュールのほうが、よほど気になった。
彼の二人の子供が共に夏の生まれであることは、すでに知っていた。いつもの店で、日垣が水割りを片手にそういう話をしたことがあったからだ。時々前髪をかき上げながら、中学生になる息子たちのことを話す彼は、とても嬉しそうだった。
遠く離れて住んでいても仲の良い家族なのだろう、と思っていたが、彼が、家族全員で互いの誕生日を祝うために休暇のスケジュールを組んでいたとは知らなかった。
彼自身の誕生日も、高峰の話で初めて知った。
知ったところで、美紗には何もしようがない。日垣貴仁の生まれた日を祝うのは、家族だけに許された特権だ。他人である鈴置美紗が、その当日に彼の傍にいることは、許されない。
今のままでいたいから
伝えないまま、想われないまま、何もできないまま
……胸が、痛い
松永に「八月中に必ず三日は休みを取るように」と言われ、渋々承諾したが、短期間でも職場から離れれば、胸の疼きは消えるだろうか。
そんなことを考えていた美紗が、フロアの一角で、日垣と女性職員の妙なやり取りを目撃したのは、彼が八月生まれだと知った数日後のことだった。
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