誓いの呪縛
件のレセプションの後、美紗は職場の雰囲気が変わったことに気づいた。
大きな人事異動があったわけでも、組織改編が行われたわけでもない。ただ、第1部長の様子が、以前とは違う。
いや、これまでと何も変わらぬ上官の姿が、美紗の目には以前と違って見えるようになった、というのが正確なところだった。
朝、出勤した日垣が、第1部の面々と挨拶を交わす。長袖シャツの第2種夏服を好む彼は、長身のシルエットがそう見せるのか、半袖姿の他の自衛官たちよりよほど涼しげに見えた。
その彼が、課業時間中に、時折「直轄ジマ」の末席に座る美紗の横を通り過ぎる。大股で歩く姿が視野に入り、部下とやり取りする低めの声が耳に届く。そのたびに、息が詰まりそうになる。
これまで、仕事とプライベートの線引きは、支障なくできているつもりだった。日垣貴仁の姿を目に留めても、心が少し温かくなった後は、すぐに自分のやるべきことに意識を戻すことができた。
絶対に気持ちは伝えない
そう決意した今になって、彼のすべてに、ひどく敏感になっている。
職場にいる時はあくまで上官であるはずの彼に、いつもの店で真向かいに座る男の笑顔を重ねてしまう。
濃紺の制服を着ている時は「日垣1佐」であるはずの彼に、「日垣さん」と呼びかけそうになる。
幸い、第1部長は普段は個室にこもっている。会議や業務調整のために不在にすることも多い。もし彼が直轄班長の席あたりに四六時中座っていたらとても仕事が手につかなかったかもしれない、と美紗は思った。
もしも伝えてしまったら
気付かれてしまったら
彼は、仕事のために平然と偽ることはあっても、家族にも、鈴置美紗にも、嘘をつくことはないだろう。きっと遠ざけられて、終わりだ。
気のせいか、吉谷綾子と日垣が以前より頻繁に話をしているように感じる。
「直轄ジマ」の自席に座っている時、廊下を歩いている時、ふと彼の声が聞こえ、そっと辺りを見まわすと、事務所の隅のほうで、ある時は階段の入り口で、二人が立ち話をしている。真面目な顔で、しかし、声を落とし、顔を近づけて語り合っている。
二人とも既婚だ。それぞれに家族を大事にしている。信頼できる仕事上のパートナー同士として、接しているだけだ。
そう分かっているのに、心が乱れる。
メンターと慕っていた吉谷に嫉妬しても意味がない。
そう分かっているのに、心が疼く。
想いは口にしないと決めたのだから、日垣が誰と何をしようと、彼の自由だ。
そう分かっているのに、焦燥の念に苛まれる。
梅雨が明けると、都会の街は連日、耐えがたいほどの日差しに照りつけられた。しかし、美紗の心は厚い雲に覆われたままだった。
あの青い光の海を見てから、いつもの店に、行けなくなった。
いつもの席で、いつものように、日垣貴仁と差し向かいに座ったら、自分の決意を守っていられるか、自信がなかった。
あの人の柔らかな笑顔を前にして、自分を抑えていられるか、不安だった。
会いたいのに、会うのが、怖い
怯えた心を抱えたまま、週末がまたひとつ、過ぎていく……。
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