森厳な光


 海、のような、一面の青が広がっていた。

 正確には、青と紺の合間くらいの色。すべての雑念を消し去る、絶対的な一色の世界。



 綺麗……



 それが高層ビルに隣接する庭園風の広場を覆う青一色のイルミネーションであることに気付いたのは、数秒が経ってからだった。

 周囲の木も、芝生の上さえも、小さな青い灯りで埋め尽くされている。 



 空気すらも青に染まっているかのような、その空間を、どれだけの間、眺めていたのだろう。

 美紗は大きく息を吐いて、我に返った。


 ずっと胸の中を飛び回り続けていた何かは、いつの間にか、いなくなっていた。



 かわりに、青と紺の間のような色合いの光が、日垣貴仁の制服姿を思い起こさせた。

 レセプションに出発する間際の日垣に、上着を取ってきてほしいと言われて、初めて彼の制服に触れた。美紗の手には、その上着はかなり大きく感じられた。彼がそれを羽織る仕草に、姿勢の良い濃紺の後ろ姿に、つい息を飲んだ。

 急に体が動かなくなったような気がして、上着と一緒に持ってきた在京フランス大使館の招待状を渡しそびれた。


 レセプション会場であの人は困らなかっただろうか、と今になって心配になった。

 もっとも、何事にもそつのない彼のことだ。1等空佐の階級を付けた制服を着て官用車で現地に赴くのだから、招待状がなくとも差し支えないと思っていたのかもしれない。少なくとも、大使館のセキュリティに止められることはないはず……。


 どこまでも間の抜けた自分が悲しくて、美紗はため息をついた。

 あの時、日垣が事務所を出てまもなく、件の招待状が自分の手元に残ったままだと気付いていた。しかし、彼を追うことも、連絡を入れることもしなかった。とてもそこまで気が回らなかった。

 濃紺の制服に寄りそう「奥様代理」の女性に気を取られるばかりだったから……。



 一面の青が、何かにかき乱された後の、まだざわつきが残る胸の中を、静かに、ゆっくりと、清めていく。

 川を濁らせていた細かな砂が徐々に沈殿し、水が透明になっていくように、心が平静を取り戻すと、今まで見えていなかったことが、ゆっくりと浮かび上がってきた。


 金色に縁どられた厚みのある招待状には、宛先として、確かに二人分の氏名と肩書が記されていた。


  Colonel and Mrs. Takahito HIGAKI

  (1等空佐 日垣貴仁 様/令夫人)


 三文字のアルファベットが、これまでほとんど意識していなかった存在をはっきりと主張していたことに、今更ながら、気付いた。


 「Mrs. HIGAKI(日垣令夫人)」は、この大都会から遠く離れた街に住む、ただ一人の女性を示している。吉谷綾子がどんなに才色兼備であろうと、大須賀恵がどんなに積極的であろうと、その地位に辿り着くことはない。

 鈴置美紗がどんなに想いを寄せようと、彼の「令夫人」には、なれない。


 一面の青が、尋ねるように瞬く。


 彼を求めるのは、罪深いことではないのか

 彼は、求められることを、望んでいるのか 



 その答えは、あまりにも明白だ。


 日垣貴仁に家庭があることは、初めから分かっていた。彼が、離れ離れに暮らす家族を大事にしていることも、知っていた。家族ある男性を好きになっても意味はない、と吉谷綾子が言った時、美紗は確かに反論しなかった。

 それなのに、いつもの店で彼に会えば、それらすべてを忘れていた。忘れたフリをして、これまでの時を過ごしてきた。


 一面の青が、諭すように煌めく。 


 彼を好きになっては、いけない

 彼に想われたいと、望んでは、いけない

 


 美紗は、突き刺すような青い光の中で、立ち尽くした。

 もう好きになってしまった。好きになって、半年以上も過ぎてしまった。



 せめて、今のままで、いたい



 それが正直な気持ちだった。都合のいい、身勝手な思い。



 心の中で想うだけにするから

 決して想いを伝えたりしないから

 今のままでいることを、許してください



 一面の青は、美紗の願いには沈黙し、ただ問い返すように、冷たく光る。


 心の中で想うだけ、決して伝えずに想うだけ

 貴女にそれができるのか



 美紗は、唇を強く噛んで、自分を取り囲むように広がる青い光を見つめた。



 できない、わけにはいかない

 あの人の傍にいるために、絶対に気持ちは伝えない




 音もなく降り続く雨の中で、青と紺の合間の色に彩られたイルミネーションは、美紗の決意を試すかのように、いつまでも美しく煌めいていた。



       ******


「ガーデンスペースの……ことですよね?」


 征が呟くように尋ねた。美紗は、ブルーラグーンにしては青が深すぎるカクテルグラスを見つめたまま、顔を上げられないでいた。家族のいる男性を想って心を乱していたなどと、若いバーテンダーにとっては、嫌悪感を覚えるばかりの話だろう。


「大通りを渡ったところの、高いビルの向こう側にあるやつでしょう?」


 美紗がうつむいたまま頷くと、征は一人、静かに語り続けた。


「あそこ、青い世界って感じでホントに綺麗ですよね。LEDを20万個くらい使っているんだそうですよ。僕も時々仕事帰りに見に行ったりするんですけど、あの青い光に包まれたら、もやもや考えていたことがすっかり消える感じで……。なんだか、自分に正直な気持ちになれるから、好きなんです」

「正直な、気持ち……」


 美紗は征の言葉を口の中で繰り返した。家族を持つあの人と、ひと時を共有するだけの関係を、ずっと続けたかった。不道徳だと謗られても、その時の想いを否定することはできない。


 美紗は、ブルーラグーンから目を離し、ゆっくりと、正面に座るバーテンダーのほうに視線を上げた。美紗より若いはずの彼は、藍色の瞳に悲しげな色を浮かべながら、包み込むような笑顔を返してきた。


       ******


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