きらびやかな蝶(2)


 その日の仕事を終えた美紗は、早めに事務所を出た。日垣貴仁を「お気に入り」だと公言する大須賀恵から、第8部主体の「女子会」に来ないかと声をかけてもらっていたが、用事があるなどと適当な嘘を言って、断っていた。



 細かい雨が降る中、美紗は通いなれた道を独り、とぼとぼと歩いた。


 金曜日の夜なのに、日垣貴仁がいない



 週末の夜を一人で過ごすのは、特に珍しいことではなかった。第1部長のスケジュールは、しばしば、仕事のみならず、酒好きな同期達との会合で埋められる。

 そんな時、美紗はたびたび、一人で馴染みのバーに足を運んだ。


 シックな店の雰囲気にはあまり似つかわしくない童顔の客を、マスターはいつも快く迎えてくれた。

 カウンターの隅の席で、マスターはじめ数人のバーテンダーが美しいカクテルを作るのを眺めたり、大海に小さな宝石を散りばめたような夜景を見ながらぼんやりと彼を想ったりする時間は、それなりに心地が良かった。


 しかし、今夜ばかりは、彼を想えば、彼に付き添う女の姿を思い出さずには、いられない。



 梅雨冷えの夜が、七月とは思えない寒々しさで美紗を覆う。気を張っていないと立ち止まりそうなほど、惨めだった。

 こんな気持ちになるのは、おそらく四年ぶりだった。



 初めてそれを味わったのは、大学の二年次が終わった春休みだった。


 前年の秋に父親が失職し、悩んだ末に、在席する大学に給付型奨学金を申請した。しかし、審査に落ちれば、退学以外の選択肢はない。勉強一筋にやってきた訳ではないが、それでも、これまで積み上げてきた努力や温めてきた夢があっけなく霧散するのかと思うと、無自覚のうちに、心が荒み、隙ができた。

 少し仲が良かった程度の男子学生から強引に誘われ、それを拒否する強さがなかった。諦念にも似た感情に支配されながらの初めての体験は、終われば悔恨の感覚となって心に刻みつけられた。



 二度目は、その男と別れた時。


 相手が美紗に強い好意を寄せていたのは間違いなかったが、同級生のその彼は、あまりにも幼稚だった。無事に奨学金を得て勉強とアルバイトに勤しむ美紗を傍らで見守ることなど、とうていできなかった。

 美紗が経済的な理由でそうしなければならないことを知った彼は、美紗に面と向かって「大学を辞めて自分と結婚すればいい」と言った。

 まだ実社会も知らない人間の手の中に、すべての将来を放棄して捕らわれろというのか。侮蔑的に聞こえたその言葉は、同時に、実家で自堕落に暮らす自分の父親を彷彿とさせた。


 初めて身体を許した相手に嫌悪感を覚え、会うのが辛くなった。ますます距離が開くと、三年次の夏休み前には、男のほうから離れていった。


 自分を好きだと言ってくれた人間でさえ、望む通りに自分を受け止めてくれはしない。至極当然の現実を、そんな形で思い知った。



 そして三度目は、独りになって半年ほど経った頃。母親があの言葉を口にするのを聞き、帰るべき家を失った時だ。


『美紗が生まれなければずっと働いていられたのに』


 過去にやってきたことも、夢も思い出もすべて、その一言によって否定されたような思いがした。正月休みも終わらぬうちに実家から大学の寮に戻る電車の中で、涙がこぼれるのを堪えることができなかった。おそらくそれが、これまで生きてきた中で最も情けない時間だった。


 四年次に入るまでに立ち直ることができたのは、歩むのを止めれば「終わり」だと確信していたからだろう。立ち止まれば、自分の未来を支え励ます者のいなくなった家の中に、閉じ込められるだけだ。



 それから後は、思い悩む暇すらなかった。生きる場所を探すために、就職活動をした。帰る場所がないという恐怖を忘れたくて、ただ働き続けてきた。立ち止まることも、逃げ出すことも、考えられなかった。


 そんな日々に、日垣貴仁は、安らぎをくれた。

 それだけで、十分だった……はずなのに




 耳障りな警告チャイムとともに、ドアが開いた。自宅の最寄り駅ではない、しかし、すっかり馴染みとなった駅に着いていた。


 美紗は反射的に地下鉄を降りてから、ここに来てどうするのだろう、と思った。いつもの店に行きたいわけではない。それでも、足は勝手に「いつもの出口」へと向かい、「いつもの階段」を上り始める。


 今日は彼を想いたくはないのに。

 彼の横で「奥様代理」を務める吉谷綾子のことを、考えたくはないのに……。



 日垣貴仁と吉谷綾子は、わずかな期間ながら、第8部で共に勤務している。情報という仕事を通じて知り合ったのは、それよりもっと前かもしれない。


 吉谷は間違いなく、美紗の知らない「過去の日垣貴仁」を知っている。


 防衛駐在官になる前の、2等空佐だった頃の彼を。

 もしかしたら、さらに若い頃の彼を。



 彼女は、統合情報局第1部長となった日垣の印象を「何となく怖い」と美紗に語っていた。



『それなりにやり手の人だなとは思ったけど、1部長として戻ってきてからは……あの人、余裕で裏表を使い分けるタイプになったなって感じて』



 過去のあの人は、どんな人だったのだろう。

 その時、あの人と吉谷は、どういう関係だったのだろう。



『昔は隠れ家的なお店をひとつ持ってたみたいだったけど』



 十年ほど前、情報畑でキャリアを積んでいた日垣が、まだ独身だったかもしれない吉谷に、仕事上のパートナーとして信頼を寄せるのは、極めて自然なことのように思えた。

 その信頼関係の中に、いくばくかの好意が醸成されていたのかは、分からない。


 二人が、いつものあの店で、もしかしたら、いつものあの席で、親しく語り合うことがあったのか、それを知る術は、ない。




 地上に出ると、再び冷たい湿気が美紗にまとわりついた。傘をさしても、目に見えないほど細かい水滴が、夏物の薄いスーツを重くしていく。

 憂鬱な雨を嫌ってか、人通りはいつもの金曜日より少なかった。かわりに、四車線の大通りを行きかう車の数が、やや多いような気がする。


 道路の反対側にある五十五階建ての高層ビルを左手に見ながら少し歩くと、すぐに、いつもの細い脇道と交差するところまで来てしまった。



『若い鈴置さんが私の奥さん役では、あまりに可哀想だ』



 ふと、日垣が以前に口にしていた言葉が思い出された。

 週の初め、直轄チームで問題のレセプションの話題になった時、彼は少し困ったように笑って、そう言っていた。


 今になって、そのセリフが、さりげなく何かを拒絶しているかのように、聞こえる。


 月に数回、美紗と日垣貴仁がいつもの店で数時間を共有するようになってから、八カ月ほどが過ぎていた。その間、いろいろなことを話した。仕事の話ばかりだったはずが、いつのまにか、互いのプライベートに触れるようになっていった。


 過去の思い出、将来の夢、そして、家族のこと……。


 日垣貴仁は、美紗が抱えるものすべてを、静かに、抱きとめてくれた。


 重みがひとつ消えるたびに、空いたその場所は、彼への想いで埋まっていく。初めて経験する至福の過程。


 しかし、心が彼で一杯になってしまったらどうなるのか。そんなことは、これまで考えたこともなかった。



『若い鈴置さんが私の奥さん役では……』



 年が離れているから。そんな理由を付けて、これ以上は近づいてくれるなと言いたかったのか。彼は、美紗自身が自覚するより早く、当人の心を察していたのだろうか。



『相手があんな若いのだったら、下手な行動に出られないように心理的にコントロールするのだって、きっとお手のもの……』



 吉谷が、八嶋香織を引き合いに出して言った言葉が、今は、違う意味にも解釈できる。



 私が吉谷さんくらい年を重ねていれば、もっとあの人の傍にいられるのに

 私が吉谷さんくらい経験豊富だったら、もっとあの人に信頼してもらえるのに

 私がもっと大人だったら、あの人を警戒させることはなかったのに

 私が――



 色鮮やかな蝶が、夜の街を華麗に飛び回り、嫉妬の煌めきをまき散らす。



 

 いつもの細道を通り過ぎ、そのまま明るい大通りをぼんやりと進んだ。

 交差点で、信号に行く手を阻まれた。多くの傘が大通りを横切る。道路の向こう側へと歩く人並みのほとんどは、頭上に覆いかぶさるようにそびえる高層ビルを目指している。

 その動きに流されるかのように、美紗も体を左に向けた。


 点滅する青信号に急き立てられるように横断歩道を渡り、ふと顔を上げると、白い光が目に入った。細長く伸びるそれは、いよいよ間近に迫る高層ビルとそれに付随するショッピングエリアの敷地を縁どるように、ずっと奥まで続いていた。


 白い柔らかな色が、細かい雨に、滲む。


 美紗は、零れ落ちそうなっていた涙を、指でぬぐった。


 白く細長い光の筋は、無数の小さな灯りに飾られた遊歩道だった。すぐ脇にある二車線の車道と同じくらいの幅がある。道に沿って植えられた木々は、白い電球をまとい、あるいは、落ち着いた緑色を光の中に振りこぼし、歩く者の心を静寂へといざなうかのようだ。


 いかにも、雰囲気を求める恋人たちで混み合いそうな場所だ。しかし今夜は、冷たい雨が彼らを建物の中に追いやってしまったらしく、白と緑のコントラストの中を歩く人影はまばらだった。


 美紗は、何かに導かれるように、ひとり、その道を進んだ。


 遊歩道はやがて車道から離れ、木立の中へと入っていく。そこも、眩しくない程度にライトアップされ、都会的な静けさに満ちていた。

 舗装された道を歩く足音だけが、小さく響く。


 さらに緑の中を行くと、にわかに視界が開けた。


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