青の幻想(2)


 「いつもの店」を出ると、涼しい夜風が吹いていた。細道を抜け、四車線の大きな通りに出ると、にわかに視界が明るくなる。道に沿って立ち並ぶビルの窓は未だに煌々と光り、深夜にも関わらず、人通りは絶えない。


 美紗と日垣は、タクシーが行きかう大通りを並んで渡り、高層ビルのすぐ手前にある脇道に入った。ライトアップされた緑の遊歩道が都会の喧騒を徐々に遠ざけ、二つの足音は夜の木立に吸い込まれていく。

 言葉少なに歩を進めながら、美紗は右隣の日垣を遠慮がちに見上げた。目線より少し上にある広い肩。彼の横顔が、穏やかな中にも精悍さを漂わせているように見えるのは、照明が作り出す夜の木漏れ日のせいなのか……。


 やがて、二人は広いガーデンスペースへと導かれた。


「確かに、海の中にいるようだね」


 一面に広がる青と紺色の合間のような色合いの光の海を前にして、二人の足がほぼ同時に止まった。

 少しの間を置いて、日垣がゆっくりと青一色の中へと近づいていく。その後を、美紗は黙ってついて行った。


 夜の闇の中、青く映し出された彼のシルエットは、背広姿にも関わらず、濃紺の制服を着ている昼間と同じように、姿勢よく引き締まって見えた。見慣れているはずの背中に、突然、衝動的な何かを感じて、美紗は慌てて足元に視線を落とした。


 アスファルトの上に、彼の影がぼんやりと映っている。それを追って後ろを見やると、自分の影が、彼のそれと交わることなく、ただ長く伸びていた。

 並行に並ぶ二つの影は、美紗と日垣の関係を象徴しているかのようだった。



 二人の未来は、決して交わらない

 共通の未来が、あってはならない



 突然、美紗は息苦しいほどの動悸に襲われた。青い光に責め立てられ、貫かれているような気がした。息を吸うたびに、胸に痛みが走る。



 共通の未来なんか、いらない

 あの人に未来なんて求めない


 ただ一瞬だけ、許されるなら――



 気が狂うほど煌めく青い海の中で、美紗は苦しげに吐息を漏らした。


 その一瞬を願うことすら、罪深いと分かっている。せめぎ合う思いに、どうしようもなく混乱する。


 無意識のうちに、足が止まっていた。やや冷たく感じる秋の風が、体の中を吹き抜けていく。



 美紗の気配が離れたことに気付いた日垣は、青い光の中で振り返った。


「この時間になると、さすがに冷えるね」

 

 日垣は、着ていたスーツの上着を脱ぎながら美紗のほうへ歩み寄ると、それを華奢な肩にかけた。

 大きな上着は、夏物ながら、小柄な美紗にはかなり重く感じられた。襟元から、男物の整髪剤のツンとした匂いがした。


 その上着の上から背中を軽くたたかれ、美紗は日垣と一緒に歩き出そうとした。足が、なぜか、思うように動かなかった。

 上半身だけが前に出て転びそうになるのを、日垣が素早く抱き留めた。


「すみません。やっぱり少し……飲みすぎてしまって……」


 美紗は見え透いた嘘をついた。アルコールを飲むようになってから、飲んだ後に体調が悪くなったことなど一度もなかった。


 酔いとは違う、激しい違和感。


 息をするのさえ辛く、両足の感覚がどんどん消えていくようだった。美紗の体を支える太く逞しい腕が、理性的なものを急速に奪っていった。



 私はずっと、こんなふうにされたいと思ってたんだ



 そのことを自覚してはならないと、この一年ほどの間、無意識に自分を抑えてきた。でも、たぶん、もうだめだ……。

 美紗は、鈍く痛み続ける胸を手で押さえた。


 小さなベンチを見つけた日垣は、美紗を半分抱きかかえるようにして、そこへ連れて行った。

 崩れるように座り込んだ美紗は、彼の腕の中で、ただ震えていた。


「寄り道するには、少し時間が遅すぎたね」


 日垣は、申し訳なさそうに言うと、Yシャツのポケットから携帯を出した。


「家まで送っていくから。タクシーには乗れそう?」


 タクシー会社の番号を検索する手を、美紗は強く掴んだ。



 私を帰さないで

 今夜だけでいいから、一緒にいて――



 息が詰まって、声が出なかった。気を失いそうなほど、苦しかった。


 日垣は一瞬、切れ長の目に悲痛な色を浮かべた。そして、大きな手で美紗の頭をそっと撫で、小さな体を静かに寄せた。


       ******



「鈴置さん?」


 日垣貴仁とは違う声に、美紗ははっと目を見開いた。


 青一色のガーデンスペースの幻影が消え、薄暗い「いつもの席」の光景が浮き上がってきた。ついさっきまで感じていた冷たい夜風に代わり、懐かしさを感じさせる何かが、ふわりと身体を包む……。


 それが静かな旋律の音楽であることに気付いた美紗は、マホガニー調に統一されたバーの店内をゆっくりと見回した。そして、正面に座る人影に恐る恐る視線を移した。

 青年と少年の間のような顔をしたバーテンダーが、藍色の目で心配そうに美紗を覗き込んでいた。


「あ……」


 一年半ほど前の追憶から醒めた美紗は、力が抜けたように大きく息をついた。


 あの後、何があったのか、あまりよく覚えていない。あの人の腕に支えられ、青い海を抜けた。自分を失う寸前に、彼に許しを求めた。


 

 ずっと好きでいて、いいですか

 ご迷惑はかけません……



 あの人が何と答えたのかは、思い出せない。

 思い出せるのは、大きな骨ばった手のぬくもりと、下の名前をささやく耳に心地よい低い声。身体に触れる唇と厚い胸板。そして――。


 しばしの空白の後、何かに深く満たされた心地で目覚めた時には、清らかな陽の光が射し込む、見知らぬ部屋にいた……。



 美紗は、嗚咽とも呻きともつかぬ声を漏らした。あの夜の記憶を辿ろうとすると、青い光の中で立ち止まった時と同じような胸苦しさを覚えた。

 未だに彼を求めてやまない想いと、激しい罪悪の念が、無秩序に絡み合い、襲いかかる。


「あの、大丈夫ですか?」

「……誰かを、悲しませてまで、日垣さんと一緒にいたかったわけじゃ、ない……」


 美紗は、ブルーラグーンから顔を背けた。


「信じてはもらえないと、思うけど……」

「いえ、僕は……」


 藍色の瞳が、美紗にかけるべき言葉を探して、宙をさまよう。


「日垣さんの家族は、離れていても、とても仲が良さそうで……。日垣さん、よくお子さんのこと、話してた。そういうのを、私が壊してしまうなんて、そんなこと、したくない。日垣さんが、大切にしているものは、私も大事にしたいから。ずっと、……ずっとそう思ってたのに」


 好きな相手も、彼の周りの人たちも

 きっと、不幸にしてしまう

 それを承知で、好きになってしまった

 それを承知で、想いを遂げてしまった



「だから私は、……誠実なんかじゃない」


 涙を滲ませる美紗の目は、確かに、澄んでいた。征は、泣き出しそうな顔で、意を決したように口を開いた。


「僕みたいなのが何か言っても、何も知らないくせにって思われるだけかもしれないけど、僕は……、鈴置さんは、ブルーラグーンに相応しい女性だと、思います。その、……誠実っていうのは、嘘がなくて、真面目で、まっすぐってことでしょ? 鈴置さんは、そういう気持ちで日垣さんのこと好きになったんだし……。日垣さんは、たまたま家族がいる人だったけど、だけど……、誠実なのは本当だから」


 美紗は何も答えなかった。テーブルの端に置かれたキャンドルホルダーの光だけが、沈黙の中で揺らめいた。


「ねえ、鈴置さん」

 

 先ほどまでの、口下手な少年のようにもどかしい口調が、急に低く落ち着いたそれに変わる。窓に映るバーテンダーの横顔は、ゆっくりと物憂げな色を深めていった。


「この世の中、『べき論』だけでは片付けられないことが、たくさんあると思うんですよ。人を想う心なんてのは、まさにその筆頭じゃないですかね。貴女はまだお若いから、そういうのは認めたくないのかもしれませんが」


 美紗は、バーテンダーの言葉を聞いているのかいないのか、ただ、ぽろぽろと涙を零した。


 テーブルに置かれたままのブルーラグーンは、美紗と一緒に泣いているかのようにグラスに水滴をまとい、ペンダントライトの薄暗い光に、静かに照らされていた。




*ブルーラグーン

  ウォッカベース/中口

  アルコール度数 24度

  カクテル言葉:「誠実な愛」

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