青の幻想(1)

「今回の一件で、八嶋さんが自分自身の問題に気づいてくれればいいが、どうだろうね」


 日垣は水割りを飲み干すと、再び和やかな表情に戻った。

 この「隠れ家」にいる時にしか見せない笑顔が、美紗の胸によぎる漠然とした不安感を、霧散させていった。


 ふと、テーブルに置かれたタンブラー型のウイスキーグラスに目が留まった。下半分に流れるようなカットが入ったそれに、キャンドルホルダーの光が当たり、氷だけになった中身がきらきらと輝いている。


「あの、お飲み物、同じものにされますか?」


 言いながら、美紗はテーブルの端にあったアルコールのメニューに手を伸ばした。


「そうだな。次は、君のイメージのお酒を飲んでみようか」

「私の?」

「青い色の……。ブルーラグーン、というんだったね」


 日垣は、恥ずかしそうに頷く美紗にわずかに微笑み、それから、カウンターのほうに顔を向けた。程なくして、マスターが衝立から顔を覗かせた。


「ブルーラグーンを。君は?」

「私はまだ……」


 カクテルグラスの中には、マティーニがまだ三分の一ほど残っていた。


「定番のものになさいますか。それとも……」


 マスターが、ちらりと美紗のほうを見やる。美紗は、ますます縮こまりながら、日垣が「鈴置美紗さんのイメージのものを」と応えるのを、聞いた。



 しばらくして、水の入った小さめのタンブラーが美紗の前に、そして、日垣の前には、青と紺の間のような色合いのカクテルが置かれた。

 細身のグラスの中で、ソーダの泡が、恥ずかしそうに揺れ動く。それを、日垣は愛おしげに眺めた。


「あ、あの、普通のブルーラグーンは、もっと水色に近いんだそうです。でも、私には濃い青のほうが合う、ってバーテンダーさんが……」


 問われてもいないのに、美紗は、特別に深い青い色のことをしどろもどろに説明した。切れ長の目が見つめる先は自分をイメージして作られたカクテルのほうだと分かっているのに、まるで自分自身が彼の視線に囚われているような気がした。


「確かに、『礁湖ラグーン』にしては青が少し深いかな。心静まるような色だ……」


 そう言って、日垣は静かにブルーラグーンに口を付けた。


「少し、甘いね」

「オレンジのリキュールが入っているって聞きました。あ、どんな味なのか、先に言えばよかったですね」

「いや、この優しい色と味わいは、君のイメージそのままだ。すべてを言わなくても、黙って、分かってくれる……。そんな感じだね」


 美紗は顔が強く火照るのを感じた。一方の日垣は、グラスを少し持ち上げて、中の透き通る青を覗くように見つめた。


「このカクテルを作ったバーテンダーさんは、さすがプロだけあって、少し話しただけで、相手の気質が分かるんだろうね。それとも、『みさ』という語感から、色的なインスピレーションを得たのか……」


 下の名前を口にされて、ドキリとした。日垣の顔を見ることができずに、かわりに彼の手の中にあるブルーラグーンを見つめる。


 青と紺の合間のようなカクテルの色

 冷たい雨の夜に独りで見た、イルミネーションの色

 大事なことを諭すかのように鋭く光っていた青い海と、同じ色


 しかし、今、華奢なグラスの中にある「青い海」は、彼の大きな手に優しく抱かれて、あの時とは違う、優しい光を降りこぼす……。



「……さん? 大丈夫?」


 美紗はびくりと震え、肩にかかる黒髪をわずかに揺らした。


「あ、すみません。少し、ぼうっとして……」


 中身が半分ほどになったカクテルグラスをテーブルに戻した日垣は、遠慮なくクスリと笑った。


「少し酔った? 珍しいね」

「いえ、あの、……そのカクテルの色のような場所のことを思い出して……」


 美紗は、言い訳をする子供のように慌てて言葉を継いだ。


「場所? イルミネーションか何かの?」

「あ、そうです。お庭のようになった所がイルミネーションで飾られているんですけど、青一色に光っていて、海みたいで……」

「イルミネーションの『海』か。綺麗だろうね」

「来るときに通った大通りを少し行った所の、高いビルの裏手なんですけど……」

「すぐそこの?」


 日垣は、椅子からわずかに身を乗り出して、客やバーテンダーたちの影の向こうに大きく広がる窓の外を見やった。

 星のない夜空の下で、無数の街灯りが瞬いている。その中にひとつ、ひときわ高い光の塔がそびえていた。


「今日も、やっているかな」

「たぶん……」


 美紗が答えると、日垣は腕時計をちらりと見た。十一時半を少し回ったところだった。まだ、終電までには一時間ほどある。


「酔い覚ましに、少し歩こうか」


 優しげな眼差しに、美紗は、はにかんで頷いた。残り少なくなったマティーニをそっと口に含むと、恍惚にも似た心地よさが身体中に沁みていった。



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