心当りのない事情


 身上調査書に不備がある、と第1部長の日垣に言われたのは、日米の情報交換会議が行われてから一か月半ほど経った頃だった。



 美紗は、統合情報局第1部に異動した初日に、詳細な身上書を提出していた。防衛省に入った際にも同じような書類を出してはいたのだが、より秘区分の高い情報を取り扱うことの多い部署に転属するにあたって、業務に見合うセキュリティ・クリアランス(秘密情報取扱資格)を得るために、再度、必要な保全手続きを求められたのだ。


 身上調査に関わる一連の作業は、防衛省から警察庁に依頼される。具体的な調査活動は対象者の居住地域を管轄する警察署が担当し、当人の一般的な経歴から政治活動の有無に至るまでが事細かに照会された。

 同時に、一定の範囲の親族にも、思想的問題や犯罪歴がないかなど、一通りの身辺照会が行われるのが常だった。




 十一月初めの金曜日の夕方、美紗が第1部長室に入ると、難しい顔をした日垣が、四、五枚の書類が挟まったバインダーを手に、大きな執務机の向こうに座っていた。


「本来は、比留川のほうに回される話だったんだろうが、昨日、たまたま人事課長と保全課長が君のことを話しているところに私が居合わせたものだから……」


 いつも直截簡明ちょくせつかんめいな日垣が、なかなか本題に入ろうとしない。美紗は奇妙な緊張感を覚えた。


「君を統合情報局うちに異動させるにあたっては、私が急に決めて人事上の処理を強引にすすめる格好になったから、それで彼らは、私が事前に君の事情を承知していると思ったんだろう。そのあたりのことを教えてくれと、内々に聞かれた」

「私の、『事情』……ですか?」

「だから、これから話すことは、班長も先任も、まだ知らない」


 意味がさっぱり分からなかった。身辺調査で指摘されるようなやましいことをした覚えはない。怪訝な顔をするばかりの美紗と、慎重に言葉を選ぼうとする日垣の間に、沈黙が流れた。

 安普請な壁ひとつ隔てた向こうで、直轄班長の比留川が陽気に喋っている声が聞こえてくる。


 やがて、日垣は渋い表情のまま、淡々と話しだした。


「君が以前に書いてくれた身上書では、ご両親の居住地はともに君の実家の住所になっていたが、警察側の照会では、お母さんはお引っ越しされたのか、現在は違う場所にお住まいのようだ。住民票が都内に移されていた」

「引っ越し? ……って、いつ頃なんですか」

「住民票に関しては、一年半くらい前のことだそうだ」


 呆然とする美紗を、日垣はじっと観察した。


 美紗が統合情報局で身上書を書いたのは三カ月前だ。その時点で、一年半前に居住地を変えている実母の住所を知らない、というのは、かなり不自然だ。


「私の両親は……、確かに不仲でしたが、母が別居だなんて、全然……」


 呟くように言うと、美紗は日垣の机に歩み寄った。


「母は、今どこに住んでいるんですか」


 日垣が手にしている書類は、おそらく、鈴置美紗とその周囲の人間に関する個人情報が事細かに記載された、警察庁からの回答文書だ。地元警察が美紗の母親について照会した際に身上書に書かれた居住地と実際のそれが一致しなかった、ということも報告されているのだろう。


 しかし、日垣は、その文書を素早く伏せると、美紗に鋭い目を向けた。


「悪いがこれは見せられない。このテの調査で何をどこまで調べるかは、警察側の秘密事項らしいんでね」


 冷たいほどにきっぱりとした口調だった。しかし、美紗はひるむことなく、更に詰め寄った。


「おおまかな場所だけでいいんです。教えていただけませんか」


 日垣は、不快そうにため息をつくと、書類を数枚めくった。彼が口にしたおおよその番地名は、二十三区内でも有数の一等地だった。明らかに、母親の実家ではなかった。


「カミヤ、漢字は神仏の神に谷だ。この名前の人の所に間借りする形でお住まいのようだ。神谷さんというのは、ご親族の方?」


 唐突に尋ねられたその姓に、心当たりはなかった。


「母は、私の両親は……、その、すでに離婚しているんですか?」


 赤の他人に親の婚姻状況を尋ねた美紗の手は、情けなさに震えていた。一方の日垣は、書類に目をやったまま、「住民票の記載は鈴置姓になっている」とだけ答えた。


「住所変更の件を承知していなかったのなら仕方がない。身上書は、私が該当箇所を訂正して人事課のほうに戻しておく」

「でも、母は……」

「手間を取らせたね」


 一切の質問を拒絶する重い空気が、部屋に漂う。


 美紗は仕方なく出口へと向かった。ドアノブを少し回すと、扉の向こうから直轄チームの面々の声がますます騒がしく聞こえてきた。

 金曜夕方という時間帯に入ってきた些細な作業を巡って、メンバー間で仕事を押し付け合っているようだった。彼らにとっては、そんなやり取りも、ある種のコミュニケーションになっている。


「ひとつだけ、業務のことでお聞きしてもよろしいですか」


 美紗は、ドアの隙間から見える「直轄ジマ」の様子を凝視したまま、尋ねた。普段の臆しがちな態度とはまるで違うその口調に、日垣はわずかに眉を上げた。


「家庭環境に問題がある人は、ここには勤められませんか」

「うちで必要なのは、仕事に見合った能力と真摯な姿勢だけだ。組織を害する可能性がなければ、親族問題に留意する理由はない」

「ありがとうございます。帰ります」


 美紗はにこりともせずに挨拶をし、ドアを大きく開けた。


「鈴置さん」


 能面のような顔が、わずかに上官のほうに振り返る。


「ご兄弟は……確か、いなかったね」


 美紗は短く「はい」と答え、第1部長室を出た。



 騒がしい「直轄ジマ」に戻りかけた時、ちょうど五時になった。館内放送で国歌が流れ始め、美紗はその場で立ち止まった。


 防衛省では、地方部隊と同様に、課業時間の開始時と終了時に、国旗の昇降に合わせて、各棟各部屋に国歌が流れる。曲が流れている間は、制服も背広も仕事を中断し、全員起立して直立不動の姿勢を取るのが慣例だ。

 入省当初の美紗にはこの光景はかなり衝撃的に映ったが、勤め始めて三年目にもなると、国歌の冒頭部分が聞こえると同時に自然と身体が動きを止めるようになっていた。


 美紗は、部長室を背に姿勢を正したまま、第1部の大きな部屋を見渡した。


 「直轄ジマ」に近い総務課で、吉谷綾子だけがすでに帰り支度を整えていた。独身時代は大いに夜の街を満喫したであろう彼女も、子供を持つ身となった今は、金曜日の夕方も子供の待つ保育園へと急ぐのだろう。

 その母親らしいにこやかな笑みを、美紗は遠くからじっと見つめた。間違いなく家族を深く愛している彼女に、もう二年半ほども会っていない自分の父母のことはとても言えない、と思った。



「何の話だった?」


 直轄チーム先任の松永3等陸佐に問われ、美紗は慌てて答えた。


「あ、その、……身上書で、書き間違いがあると……」


 自分の顔がさっと固くなるのが分かる。極秘会議の事案から二カ月近くも経ち、ようやく仕事のペースと松永の信頼を取り戻してきたところで、またひと騒ぎ起こすわけにはいかない。美紗は、小さく息を吐いて、平静を保とうと務めた。


「身上書? ああ、クリアランス格上げのやつか。しかし、記入ミスを部長が直々に言ってくるかな、普通」


 自席に戻る美紗を見ながら、松永は怪訝そうに独り言ちた。


「日垣1佐、意外と細かいことに口うるさいんだな」

「お前がそれ言うか? ミリミリ細かい『保護者』のお前があっ」


 比留川のおどけたツッコミに、松永の周囲がどっと笑った。直轄チームで最古参の高峰3等陸佐が、口ひげをいじりながら、美紗と松永を交互に見た。


「うまいこと言いますね。確かに『保護者』みたいだ」

「前に、日垣1佐からも『保護者』って言われたんですよ」


 1等空尉の片桐は、高峰の代役で美紗が情報交換会議に入る時の状況を、当時不在だった彼に面白おかしく説明した。松永が、年甲斐もなくむきになって、それに反論する。


 ますます賑やかになる面々を見ながら、美紗は、すでに自分が「直轄ジマ」という居場所に愛着を抱いていることを実感した。

 比留川が言うほど、松永の指導を煩わしく思ったことはない。極秘セクションである対テロ連絡準備室の連絡員という「別の顔」を持つ高峰と、何も知らぬふりをして共に勤務することにも、ほとんど慣れた。実際、チーム最年長の高峰は、管理職を務める比留川や松永よりよほど落ち着いていて、若い美紗や片桐をさりげなく見守る存在だった。


 数年の間に、メンバーの大半は異動してしまう。だからこそ、今の環境を大切にしたかった。それを、もはや何の帰属感も覚えない家族の存在に、かき乱されたくはない。



 美紗は、松永が身上書の件を再び持ち出す前に、その日のうちに処理したいものを急いで片付け、いつもより早めに事務所を出た。

 街灯があってもあまり明るくない防衛省の敷地の中を正門に向かって歩きながら、頭に浮かぶのは、思い出したくないことばかりだった。



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