二度目の会合(1)


 吉谷綾子と昼食を共にした日の午後、美紗は、軽い目まいを覚えながら、遅れた仕事を少しずつ片付けていった。


 いつもと変わらず騒々しい「直轄ジマ」で、先任の松永だけが、ずっと仏頂面で黙っていた。細かすぎるほど面倒見のいい指導役が何も言わなくなったのは、相当怒っているからだろう。

 彼をそうさせた心あたりが、美紗には山のようにあった。少しでも挽回したいところなのに、動揺しがちな心をかき乱す要因はさらに増えた。


 自分を気遣ってくれたように見えた吉谷は、実のところ、いわくつきの要注意人物なのだろうか。

 警告のようなメールを送ってきた日垣は、なぜ自分が昼休みに吉谷と一緒にいたことを知っていたのだろう――。




 八時をかなり回ってから、美紗は第1部の部屋を出て、誰もいないエレベーターホールにぽつんと立った。


 その日のうちにやるべきことの大半は終わらせたが、松永は最後まで不機嫌なままだった。彼が、この数日間、美紗に振り分ける仕事を減らしているのは、美紗自身もなんとなく感じていた。

 所定の時間内に所要の仕事ができなければ、その場にいるだけ足手まといだ。このままでは、いずれ直轄チームを外されるだろう。


 美紗はため息をついた。三カ月近くにわたり懇切丁寧に自分を指導してくれた松永に対する申し訳なさで、胸が痛かった。



 階下から上がってきたエレベーターの扉が開く音に、美紗ははっと顔を上げた。中から、水色と濃紺のツートンカラーの制服姿が出てきた。

 第1部長の日垣だった。手ぶらなところを見ると、別の部署にいる同期を相手に、雑談交じりの調整業務を終えて戻ってきたところらしい。


 すれ違いざまに「遅くまでご苦労様」と声をかける上官を、美紗は無理矢理引き留めた。


「日垣1佐。吉谷さんに気を付けるようにって、どういう意味なんですか」


 切羽詰まった声がエレベーターホールに響く。日垣は静かな笑顔を消し、手をわずかに上げて美紗を制した。


「そんな大げさな話じゃない。ただ……」

「吉谷さんはどういう人なんですか?」

 

 少し声を落とした美紗は、胸の内に溜まった不安を一方的に吐き出した。


「高峰3佐のように、公にできない立場の人なんですか。それとも吉谷さんは何か……」


 好ましくないことに関わっているのか、と聞こうとした時、第1部の出入り口が開錠される電子音が聞こえた。

 ドアが動き、その向こうから数人の職員が現れる。彼らは、日垣と挨拶を交わすと、三基あるエレベーターのひとつの前にたむろした。


 ちょっと飲みに行こうかなどと雑談する一団を、美紗は張り詰めた顔で見つめた。話の続きをするには、残業帰りの彼らとの距離が、あまりにも近すぎる。


「これから少し時間あるか」


 日垣が腕時計を見ながら低くささやくのとほぼ同時に、一基のエレベーターの到着を知らせるチャイムが鳴った。職場を出る人間たちが、扉の近くへゆっくりと歩み寄る。


 それをちらりと見やった美紗が「大丈夫です」と小さく返事をすると、日垣は、

「この前と同じ場所で待っていてくれ。十五分遅れくらいで行く」

 と言い残し、エレベーターの扉が開く前に立ち去っていった。




 地下鉄の駅の階段を上がると、「大人の街」が煌めいていた。


 二度目に見るその街明かりは、心なしか、温かみのようなものを感じさせた。前に来た時よりも時間帯が遅いせいか、あるいは、十日分だけ季節が秋に移り夜気が少しひんやりとしているせいかもしれない。


 高層ビルに散りばめられた光を見上げながら、美紗は吉谷の姿を思い浮かべた。

 独身時代の吉谷はおそらく、仕事帰りにこんな街を優雅に闊歩していたに違いない。華やかな中にも落ち着いた空気を抱く夜の街は、外見も中身も洗練された彼女にこそ、似合いそうだ。



「待たせたね」


 声のしたほうにはっと目を向けると、目の前に背広姿の日垣が立っていた。大通りを行きかう車のライトに照らされる彼の面持ちは、職場のエレベーターホールで別れた時とは全く違って、ひどく和やかだった。

 美紗は黙って日垣を見上げた。彼と合流したらすぐにでも吉谷のことを聞きたいと思っていたのに、問いを発しようとした唇は、急に動かなくなった。


 日垣は、「取りあえず行こうか」と言って歩き出した。


 人の多い大通りを少し行き、すぐに暗い脇道へと入った。この前は先に立って道を進んだ彼が、今日は真横に並び、小柄な美紗に合わせてゆっくりと歩を運ぶ。

 よく見ればこの路地裏にもいくつか飲食店があるが、客が入れ替わる時間帯ではないのか、道を歩く人間は、美紗と日垣の二人しかいなかった。


 ゆったりとした革靴の音と、少しテンポの速いパンプスの足音。それだけが聞こえる中、美紗はいつの間にか、吉谷の身上とは少し別のことを考えていた。


 この十日ほどの間、自分は日垣に監視されていたのだろうか。上から下まで人脈の広い彼なら、昼休み中ですら、一職員の動向を見張ることくらい造作もない。

 やはり本心では疑っているのだろうか。極秘会議に関わる一連のことは他言しないと約束した自分を、信用してくれてはいないのだろうか。


 ついさっき見た優しげな顔の裏に、冷ややかな視線が隠れているのだとしたら、怖いというより、なぜか、辛い。



 美紗は、隣を歩く日垣のほうをちらりと見た。墨色の上着だけが目に入った。彼の肩が自分の目線よりも上にある。その向こうにある顔は、暗く静かな通りの風情にしっとりと調和していた。

 それを乱すのはいけないような気がして、美紗は、開きかけた口を閉じ、下を向いた。


 少ない街灯が、二人分の影をアスファルトの上にぼんやりと映していた。



 美紗と日垣を迎えたバーのマスターは、前回と同じく、無言で店の奥を指し示した。隣席との間が衝立で仕切られた窓際のテーブル席は空いているようだったが、その周囲の席は、すでに別の客で埋められていた。

 日垣は、マスターと少し話すと、美紗を連れて、前回と同じ席のほうへと歩いて行った。


 テーブルの上に置かれた小さなキャンドルは、愛らしく火を灯していた。季節に合わせてホルダーが変えられたのか、キャンドルを抱く厚手のガラスからこぼれる光は、温かな黄色味を帯びている。


「吉谷女史に何か聞かれたのか」


 幻想的なキャンドルホルダーの光をぼんやりと見ていた美紗は、日垣の声で現実に引き戻された。


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