久しぶりの隠れ家(2)
日垣は、水割りのグラスを揺らしながら、美紗が青いカクテルを静かに飲むのを、じっと見つめた。
「そのカクテルも、強そうだね。名前は、ブルー……?」
「ブルーラグーンです。マティーニほど強くなくて……」
「じゃあ、それなりに強そうだ」
そう言って、日垣はクスリと笑った。それが耳に心地よくて、美紗も柔らかな笑みをこぼした。
「吉谷女史とは、結構仲が良かったようだね」
「とても親切にしていただきました。吉谷さんにはまだいろいろと教わりたいことがたくさんあったんですが……」
吉谷綾子は、九月一日付で航空
「彼女は、君のいいメンターだったんだろうにな……。しかし、会えなくなったわけじゃないんだ。何かあれば遠慮なく相談に行けばいい。吉谷女史を目標にやっていれば、いずれ君も立派な専門官になれる」
「私は、とてもあんなふうには……」
美紗は、テーブルの上に戻した青いカクテルを見つめながら、ゆっくりと頭を振った。
「吉谷さんは、何でも出来て、迷いがなくて、いつも自信に満ちていて、……目標にするには、あまりにも遠すぎます」
「そうかな。吉谷女史と君では、十五年以上もキャリアの差があるんだ。今の時点で比べることに意味はない。彼女も君と同じくらいの頃は、いろいろ迷うことがあったんじゃないかな。貿易会社を辞めて
日垣は椅子の背に身を預け、ゆっくりと水割りを飲んだ。グラスの中の氷が軽やかな音を立てた。
「そういえば、結婚を迷っていると相談されたこともあったな。私が東欧に赴任する前だから、もう七年も昔の話だ」
美紗は素直に驚きを露わにした。常に隙のない印象だった吉谷綾子が極めてプライベートな問題を職場の関係者に打ち明ける姿は、なかなか想像し難かった。
「突然、『相談したいことがある』と言ってくるから、何かと思えば、『結婚しないまま付き合い続ける女を、男はどう思うか』なんて聞いてくるんだ」
日垣は少し照れくさそうに笑った。大きな手が前髪をかき上げる。
その仕草を見ながら、美紗はにわかに、昼休みの女子更衣室で親しい後輩と雑談に興じていた吉谷の姿を思い出した。
『昔は、隠れ家的なお店をひとつ、持ってたみたいだったけど』
自ら日垣貴仁に声をかけたという吉谷綾子。
『水割りが好きみたいね』
彼女は、日垣のアルコールの好みを知っていた。
当時、四十手前の日垣と、彼より数歳年下だった吉谷。マホガニー調の色合いに統一されたオーセンティックバーがよく似合う二人は、何度グラスを傾け合ったのだろう。
美紗の目の前にあるブルーラグーンが、再び胸を射るように煌めく。
かつて、独身の吉谷綾子も「いつもの席」に座っていたのだろうか。
自分だけのものだと思っていた日垣貴仁の和やかな笑顔を、彼女も間近に見ていたのだろうか。
自分だけしか知らないと思っていた彼の癖に、彼女も気が付いていたのだろうか。
「吉谷女史……、吉谷さんは、あの頃も群を抜いて優秀で、なにより有無を言わせぬ迫力がある人だった。それで、当時の8部長が彼女を『吉谷女史』と呼び始めて、以来ずっとその敬称付きなんだ。本人も、満更でもないと思っていたんじゃないかな。それでも、自分の人生を、一人で完璧に計画できていたわけじゃない」
窓ガラスに映る夜景を懐かしそうに見やる日垣が語った「当時の吉谷女史」は、美紗の知っている大先輩の姿とは、少し違っていた。
経験の長いベテラン勢を制するように有能ぶりを発揮していた三十代半ばの「吉谷女史」には、その当時、付き合い始めて七、八年になる相手がいた。しかし、なかなか結婚には踏み切れずにいた。
統合情報局に入った後、最短期間で「女性初」の専門官となった彼女にとって、結婚は諸手を上げて喜べる話ではなかった。その当時から産休育休の制度が充実していた防衛省でも、重要な仕事を担う多忙なポストからは既婚女性を原則除外するという不文律があったからだ。
子供がいればなおさら働き方は限られる。家庭環境にもよるが、世間一般には、子供のために定時退社を余儀なくされ頻繁に休みを取る羽目になるのは、圧倒的に女性側である。
問題の是非はともかく、そのような理由で有能な人材が第一線から退いていくケースは、決して少なくない。
「吉谷女史も、本当は同じ立場の人間に相談したかったんだろうが、何しろ当時は、結婚している女性職員が周囲にほとんどいなかったからね。女性の専門官は皆無だ。それで私に、『男の立場』でいいから意見をくれと……」
そこまで言って、日垣はまた前髪に手をやった。いつもの仕草を見つめながら、美紗は小さく息を吐いた。このバーで会っていたかもしれない二人の会話が想像とは違っていたことに、安心感を覚えた。
「吉谷さんがそんな話をされてたなんて、なんだか……意外です」
「変な質問をするものだと私も思ったんだが、当人はいたって真面目でね。『結婚して後で相手を恨むくらいなら、結婚しないまま付き合っているほうがいいんじゃないか』というようなことを言うんだ。だから、こちらも正直に、『それは虫が良すぎる』と答えた」
「……厳しいんですね」
つい思ったままを口にし、美紗は慌てて口元に手をやった。日垣はクスリと笑った。
「今なら、もう少しマシな言い方もできたかもしれないが……。やはり君も、この答えは気に入らないようだね」
「いえ、そんな、わけでは……」
「吉谷女史の気持ちは、分からなくはない。誰だって後悔はしたくないさ。ただ、選択せずにいるのは許されない。相手があることなら、なおさらだ。それに、最善の選択をしたつもりでも、全く後悔しないということは有り得ない。将来を完璧に見通して物事のすべてを自分の手でコントロールすることは、誰にもできないからね。仕事でも結婚でも、それは同じだ。大事なのは、不測の事態に協力して対応できるか、ということじゃないかな」
指揮官職を経験した者らしい重みのある言葉に、圧倒される。美紗が無言で頷くと、しかし、日垣は急に表情を崩し、いたずらっぽい目を向けた。
「君は、吉谷女史よりずっと物分かりがいいな。彼女はもうちょっと噛みついてきたぞ。私に面と向かって、『男は気楽でいい』なんて言ってきた。『男は結婚しても生活が大きく変わるわけじゃない、普通の結婚をしていれば特に後悔する機会もないだろう』ってね」
美紗は、日垣につられてわずかに笑みを浮かべ、そして彼から目を逸らした。
艶やかな美人顔で快活な物言いをする吉谷綾子の姿が思い浮かぶ。その後ろに、もう三年半ほども会っていない母親の顔が重なった。
結婚を迷っていたという吉谷と、納得しないまま父親と結婚した自分の母。思い出話の中に「後悔」という言葉が混じるたび、美紗の胸に小さなトゲのようなものが刺さる。
母親は、結婚後ずっと後悔しながら、父親と暮らしてきたのだろうか。ずっと悔恨の念を抱きながら、自分を育ててきたのだろうか……。
鬱屈した思いの向こうで、氷とグラスが触れ合う涼やかな音がした。日垣は、水割りをブルーラグーンの隣に置くと、ちらりと美紗のほうを見やった。
「既婚者の立場から言わせてもらえば、『後悔はお互いさま』というところだ。結婚相手は神様じゃない。完璧でもなければ、自分の理想を具現化した存在でもない。結婚して全く後悔することなく一生を送る人は、男女問わず、まず、いないんじゃないかな」
「日垣さんも、後悔することがあったんですか?」
無意識に、ひどく不躾な問いを口にしていた。美紗は自分の言動に驚いて、凍りついたように日垣を見つめた。
うろたえる視線の先で、彼は切れ長の目を優しげに細めると、琥珀色のウイスキーグラスと深い青を湛えた細身のグラスが寄り添うさまを、伏し目がちに眺めた。
「別に構わないよ。吉谷女史にも話したことがあるから」
いつもと変わらぬ穏やかな口調が、かえって美紗を緊張させる。
吉谷綾子は、美紗が知らなかった日垣貴仁を、ずっと以前から知っていた。その同じ領域に、自分も今、踏み入ろうとしている……。
「妻とは結婚して十五年になるが、一緒に暮らした期間は、その半分もないんだ」
日垣は、テーブルの上で手を組むと、静かに語り始めた。
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