休日の職場
週末昼すぎの市ヶ谷は、非常呼集を受けて登庁した幹部職員と報道関係者たちで騒然としていた。統合情報局の入る建物の一階ロビーでは、撮影機材やマイクを持った人間たちがひしめき合っている。
しかし、彼らの中に、警備員たちの背に隠れるようにして歩きすぎる小柄な女性職員に目を留める者は、誰もいなかった。
第1部の部屋に入ろうとした美紗は、中から勢いよく出て来たイガグリ頭とぶつかりそうになった。
「鈴置? どうしたんだ。呼集範囲は佐官以上だったはず……」
「あの、ニュースを見て、気になったので」
「そうか、休みの日に悪いな。正直言って助かる」
直轄班長の松永は、疲れた笑みを浮かべると、直轄ジマのほうを見やった。
「取りあえず佐伯に状況を確認して、彼の指示に従ってくれ。俺はこれから
「お疲れさまです」
「ああ、ヒグマ1佐も来てるぞ」
「……」
美紗が返答に困っている間に、松永はエレベーターホールへと走り去っていった。
事務所の中は拍子抜けするほどガランとしていた。主に総務系のセクションで構成される第1部の中で招集がかけられたのは直轄チームだけらしく、他の課には自発的に出勤してきたと思われる年配の幹部が数人ずつしかいない。
部長室の前で話し込んでいる見知らぬ面々は、ひとつ下の階に勤務する地域担当部の職員と見受けられた。
直轄チーム先任の佐伯3等海佐は、戸口に美紗の姿を認めると、電話の受話器を手にしたまま、反対側の手で嬉しそうに手招きした。
「鈴置さん、来てくれたんですか」
「情報局の鑑だ」
内局部員の宮崎が銀縁眼鏡をギラつかせる横で、ずんぐり体形の3等海佐は不機嫌そうに口を尖らせた。
「つまらん誉め言葉なんか真に受けないほうがいいぞ。貴重な休日を仕事に捧げてたら結婚し損ねちまうからな。あーもう、ほんま腹立つ! 今日は恵ちゃんとデートだったのに!」
きょとんとする美紗に構わず、小坂は大声で喚き散らした。口ひげに手をやりながら英文書類に目を通していた高峰3等陸佐が、たまらず失笑をもらした。
「全く、幹部のセリフとは思えんな。その彼女のほうも呼集かかったんじゃないのか。下の階はかなり人が出て来てたぞ」
「恵ちゃ……、あ、大須賀さんのトコには特に連絡なかったそうです。8部はN国マターあまり関連ないですし。ああ、やっと休日に会う約束を取り付けたのに……」
プライバシー丸出しで愚痴り出した小坂を遠慮がちに見やりながら、美紗は佐伯のほうに歩み寄った。
「何かできることはありますか?」
「今日は取りあえず電話番と連絡係を頼めます? あちこちからN国絡みの電話が入って、対応に追われて困ってたところなんですよ。鈴置さんのところでまず集約して、うちのシマの各担当に割り振ってください。あ、これ、N国絡みの調整関係の担当割り」
佐伯は乱雑に書かれたメモを美紗に渡した。
「それから、部長とうちの班の面々の動きを把握しててくれますか。基本的には高峰3佐に留守番役してもらっているんですが、彼ももう少ししたら会合があるそうなので」
口ひげから手を離した高峰は、かすかな笑みを浮かべて美紗に小さく会釈をした。
彼の参加する「会合」とは、おそらく公にはできない類のものに違いない。美紗はちらりとそんなことを思いつつ、黙って会釈を返し、佐伯のほうに視線を戻した。
「あと、各地域担当部からどんどん情報が上がってくるから、ヒラ情報だけ逐次チェックして、重要なものだけマーキングして西野1佐とうちの班でシェアできる状態にしてください。何が重要かの判断は鈴置さんに任せます」
「はい」
「この作業は、申し訳ないけど、週明け以降もしばらくお願いすることになると思います。今回は少々長引きそうですね。現時点での感触では、N国のバックに隣の某大国がいる可能性が大のようだから」
いささか不吉な言葉を口にした佐伯は、不安げな顔をした美紗を見て、慌てて「いやいや」と手を振った。
「別に今すぐ戦争が始まるというような話じゃないんですけどね。しかし、正確な情報分析をして政府の危機管理に資するというのが我々の仕事ですから、最大限の体制で臨むことには変わりありません。鈴置さんも仕事が増えてしまって大変ですが……」
「それは、大丈夫です」
「ありがたいですねえ。今後、武内3佐はおそらく局内の取りまとめで手一杯になるので、状況によっては彼のサポートも……」
「その武内3佐はどうしたんですかあ!」
ふいに二人の会話に割って入った小坂は、丸顔を膨らませて、佐伯の向かいの空席を指さした。
「N国マターは武内3佐の担当正面でしょう? なんで当の本人がまだ来てないんですか!」
「さっきの電話がその連絡だったんですよ。今日は家の事情でやっぱり無理だと」
「無理って、そういうのアリなんですか? 担当幹部が出てこないなんて、部隊ではあり得ないでしょう」
「そんなことをここでグダグダ言ってもしょうがないだろ。今はとにかく、いる人間で対処しないと」
普段は物腰柔らかな佐伯が苛立ちを露わにする。小坂は口を思い切りへの字に曲げると、プイとそっぽを向いた。
「そういう態度、部隊じゃあり得んのと違うか」
高峰の低い声に、美紗のほうがビクリとした。皆、休日の早朝から呼び出されて気が立っている。険悪な沈黙の中、佐伯はひょろりと腰を上げた。
「小坂3佐、ちょっと向こうで……」
「いやあねえ、小坂ちゃんたら」
奇妙な声音で佐伯を遮ったのは、頬に手を当てた銀縁眼鏡だった。三人の制服が揃って嫌そうに眉をひそめる。
「お楽しみがちょっと伸びたからって、怒っちゃだめよ」
「べ、別に怒ってなんかっ」
「次のデートまでじっくり作戦を練る時間ができたと思えばいいじゃない」
「次が、……あればいいけど」
宮崎の慣れたオネエ言葉につられたのか、小坂はうっかり胸の内を吐露してますます凹んだ。
「ああ、もうきっとフラれたあ。人生最大のチャンスだったのに……」
「アタシたちは呼ばれてナンボのお仕事。非常呼集でデートをドタキャンなんて、日常茶飯事でしょ?」
宮崎は銀縁眼鏡を外すと、目を鋭く細め、うちしおれる小坂をじっと見据えた。裏返っていた声が、急に低くなる。
「そんな理由で離れていくような女は、初めから自衛官と付き合える器じゃないと思うね。そういうのは、小坂3佐のほうから願い下げにすべきだよ」
「でも……」
「ま、今回のコトは、いい試金石になるんじゃない?」
「はあ……」
ずんぐり体形の3等海佐が力なく溜息をついた時、電子ロックが解除される音がした。
ドアを勢いよく開けて現れたのは、N国マターを担当する3等空佐ではなく、紙袋を抱えた豊満ボディだった。
「どーもお、お疲れ様でーす」
「あれっ、めぐ……、大須賀さん!」
小坂は途端に丸顔いっぱいの笑みを浮かべると、跳びはねるように立ち上がった。
「今、何かド修羅場中?」
「ううんっ、ぜぇんぜんノープロブレム! 大須賀さんこそどしたの? あの後、そっちにも呼び出し来たんだ?」
「私のトコには特に何も。今日は差し入れ持ってきたのよん。休日出勤で今頃お疲れかな~って思ったから」
休日も濃厚メイクでばっちりと決めた大須賀は、紙袋から大きな箱を取り出し、小坂の机の端に置いた。ふたを開けると、こってりとしたバターとチョコレートの甘い匂いが広がった。
「マフィン焼いて来たんだけど、甘いの嫌い?」
「俺、甘いの大好きっ!」
「お前ダイエットしてたんじゃないのか……」
あっけにとられる一同の前で、小坂は箱の中身を覗き、子供のように手をバタつかせた。
「すげえ、大須賀さんの手作りー!」
「非常呼集サマサマってトコだな」
「たくさん作ってきたんで、皆さんもよろしかったらどうぞ。ほら、美紗ちゃんも」
大須賀は、佐伯の傍で棒立ちになっている美紗に手招きをした。そのふくよかなシルエットの後ろで、再び出入り口のドアが開いた。
中に入ってきた巨大な影は、一人ではしゃぐ3等海佐の背後に忍び寄ると、「ご苦労さん!」と割れるようなしわがれ声を出した。
「うわあ!」
「週末がパーになっちまったってのに、何かエラく楽しそうじゃねーか」
窓際近くまで飛びのいた小坂を指さしてゲラゲラ笑った西野は、香ばしい焼き菓子が詰まった箱に目を留めた。
「おっ、美味そうだな。誰かの土産か」
「8部の大須賀さんが、わざわざ差し入れを持ってきてくれたんですよ」
「ほーっ。俺、こう見えても甘党なんだ。一つもらっていいか」
「えっ、ちょっと待……」
慌てふためく小坂の前で、大須賀はマフィンを一つ箱から取り出した。
「どーぞ。お口に合ったらいいんですけど」
「ありがたくいただきます!」
西野はヒグマのごとく大口を開けると、大須賀の手作りに遠慮なくかぶりついた。
「うん、こりゃいい味だ。ごちそうさん!」
「……お、俺より先に食いやがって……」
「んあ? 何か言ったか小坂ぁ!」
ヒグマに睨まれた小坂は再び飛び上がって窓際に逃げた。
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