寒月の照らす窓辺(2)


 十一時を少し回った頃、ベッド脇のサイドテーブルに置いていた携帯端末のバイブレーターが鳴った。


「はい。……鈴置です」

「今、部屋の前だ」


 美紗は弾かれたように立ち上がり、スリッパを履くのも忘れて戸口へと走った。ドアガードを外し、扉を開けると、やや険しい顔をした日垣が素早く中へ入ってきた。


「どうしたんだ、急に」


 問いには応えず、美紗は顔を隠すように下を向いた。日垣は、灯りのないダブルルームを怪訝そうに見回すと、作り付けの机の上に鞄を置いた。


「かなり遅くなったな。どうしても今日中に処理したい案件があったから……」

「お忙しいのに、すみません」

「君のほうこそ、このところ業務過多になっているんじゃないのか」

「いえ、そんなことは」

「ここ二、三日、ずいぶん疲れた顔をしている」


 美紗はびくりと黒髪を揺らした。職場では面と向かって話すこともほとんどない日垣に気付かれていたとは、思ってもみなかった。

 避妊薬を飲んでいることは、絶対に知られたくない。


 日垣が脱いだコートをクローゼットにしまっている間に、美紗は逃げるように傍を離れ、彼に背を向けて窓際に立った。


「何か難しい話を抱えているなら、素直に松永に相談したほうがいい。彼はいい管理者だ。柔軟に対応してくれると思うけどね」


 耳に心地よい低い声が、ゆっくりと近づいて来る。


「私で良ければ話は聞けるが、仕事絡みのことなら、やはり班長の松永の立場を」

「日垣さん」


 美紗は大きく息をつくと、窓ガラスに映る日垣の顔を見つめた。


「……年度末に、異動されるそうですね」


 日垣は一瞬、足を止めた。しかし、特に表情を変えることもなく、静かに美紗の隣に並んだ。


「まだ打診を受けただけだが……。ずいぶん耳が早いね。さすが優秀な情報員だ」

「ご栄転なんですよね。おめでとうございます」

「だといいが、たまたま空くところに放り込まれる感じがするよ」

「もうすぐ、……会えなくなりますね。今まで、一緒にいてくださって、ありがとうございました……」


 美紗は、窓の外に視線を向けたまま、伝えるべき言葉を押し出した。精一杯に笑顔を作ろうとしても、目に溜まっていた涙がぽろぽろと零れ落ちる。泣き顔を見せたくなくて部屋の照明を落としていたが、潤む声はどうにもならない。


 日垣は小刻みに震える華奢な姿を愛おしそうに見つめた。そしてクスリと笑った。


「前言撤回だな。情報不足のまま結論を出すようでは話にならない」


 大きく見開かれた涙目を、切れ長の目がいたずらっぽく見つめ返した。


「私のところに来ているのは、内閣官房への出向話だ。安全保障関係のセクションに入ることになるらしい」

「内閣……?」

「このまま話が進めば、春からの私の任地は永田町だ。市ヶ谷からは地下鉄で二駅かな」


 日垣はまた小さく笑い、濡れた頬にそっと触れた。大きな手に引き寄せられるままに、美紗は日垣の胸に顔を埋めた。


「もしかして、それが私をホテルここに呼び出した理由?」


 逞しい腕の中で、再び泣き出した顔が小さく頷く。


「驚いたよ。君のほうからメールを寄こしてくるのも珍しいと思ったが、見たらいきなりこの部屋の番号が書いてあるから」

「ごめんなさい……」


 微かに嗚咽をもらした美紗の身体を、日垣は強く抱きしめた。そして、震える髪を静かに撫でた。


「初めてあの店に行った時も、こんなふうに泣いていたね」


 美紗は目を瞑り、包み込まれる感触に身を委ねた。


 一年半ほど前のことが、遠い昔の出来事のように感じられる。

 自分と秘密を共有することになった上官に、やがて焦がれる想いを抱くことになろうとは、思ってもみなかった。遠い街に家族を置いて独り東京で暮らす彼と、夜を共に過ごすことになろうとは、想像もしていなかった――。




「そういえばこの間、5部長が話していたんだが」


 にわかに仕事の話を始めた日垣は、まつげに涙を残す美紗をベッドに座らせ、己もその隣に腰を下ろした。


「今年の夏か秋あたりに、5部の専門官ポストがひとつ空く見込みらしい。年度が変わったら後任探しを始めるそうだが、現地経験の有無といった経歴より情報センスのある人間を欲しいと言っていた。君なら5部の仕事も広く浅く知っているし、情報運用の話も感覚的に分かるだろうから、向いているんじゃないかな」


「私が、専門官に、ですか?」


「最初は新規採用者と同じ『専門職員』の肩書だが、五、六年後には正式に専門官になる前提で育ててもらえるはずだ。直轄チームを二年ほどで出ることになってしまうが、悪い話ではないと思う。望むなら、私が今の職にいるうちに話を進めておくよ。年度明けからダブル配置にして引き継ぎ期間を長く確保すれば、少しは楽にスタートできるかもしれない」


 突然のオファーを、美紗は当惑しながら聞いた。遠慮がちに、心に浮かんだことを尋ねた。


「あの、日垣さんの新しいお仕事の、防衛省側のカウンターパートはどこになるんですか?」


「私のカウンターパート? 内閣官房と直接関わるのは主に防政ぼうせい局(防衛省防衛政策局)になるが、統合情報局も無関係ではないよ。国際情勢関連の情報要求は内閣官房からも頻繁に出されるからね。そういった情報要求は、一次的には防政局の調査課あたりが受けるが、そこから情報局に話が入って、各担当部に作業が割り振られる。そういう意味では、情報局側の調整窓口になっている直轄チームにも、引き続きいろいろと世話になりそうだ」


「そうですか……」


 昼休みに会った吉谷綾子の顔が、思い浮かび、消える。


 美紗は、泣き出しそうな微笑みを浮かべ、日垣をまっすぐに見つめた。


「それなら、私はずっと今の配置のままでいたいです。専門官のお話は、もっと経験を積んだ後で」

「美紗」


 切れ長の目に、ふいに厳しい色が浮かんだ。


「気持ちは嬉しいが、自分のキャリアをそんなふうに決めてはいけない。統合情報局の専門官ポストは実際かなりの狭き門だ。専門職の新規採用は毎年高倍率だし、部内の希望者も多い。そもそも、一つのポストでじっくり専門性を高める職種だから、人の異動がめったにないんだ。今回の話を逃したら、次の機会はなかなか来ない」


「でも」


「永田町での私の任期は二年だ。たったそれだけの期間のために、いい機会を放棄してしまうのは……」


 日垣はそこで言葉を途切れさせた。


 明かりのない部屋が沈黙に満たされる。美紗は膝の上に置いた手を固く握りしめた。


 二年後、出向期間が終われば、日垣貴仁はその時こそ東京を離れることになる――



 小さな手の上に、骨ばった大きな手が重なった。悲しい言葉がこぼれるのを怯えるかのように、二人は身を寄せ合い、窓の外に広がる星のない冬空を見上げた。

 猫の爪のように細い三日月だけが、地上に寒々しい光を降りこぼしていた。



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