許されざる聖夜(2)


 十二月二四日に日垣貴仁と会えないことは、分かっていた。その日は金曜日ではないからだ。


 彼と「いつもの店」で会うのは、金曜の夜だけと決まっている。翌日が休みでない夜に二人で会ったのは、美紗が二六歳の誕生日を迎えた日だけだった。

 日垣から誕生石を贈られた日の翌朝は、寝不足の顔で出勤した。鞄の奥深くに入れてあるはずの彼の贈り物が気になり、課業時間中に何度も女子更衣室に行っては、自分のロッカーの中を確かめた。前日と同じ服を着ていることを誰かに指摘されるのではないかと、一日中、気が気ではなかった。

 夜の火照りを体の内に残したまま、何事もなかったかのように職場で一日を過ごすのは、心底恐ろしい体験だった――。



 怯える胸の内を必死に隠す美紗の前で、日垣貴仁は全く平然としていた。いつもと変わりなく周囲の人間と接し、顔色ひとつ変えず美紗の席の脇を行き来した。目が合っても、普段通りの穏やかな表情しか見せなかった。


 日垣貴仁のもうひとつの側面を、改めて見た思いがした。


 ずっと忘れていた、嘘と偽りの世界に慣れた男の姿。

 かつて、美紗の目の前で、日垣は、その目で、その声で、自在に嘘を操ってみせた。おそらく彼は、己の心にさえ、嘘をつけるのだろう。



 あの人と一緒にいるためには、

 あの人に迷惑をかけないためには、

 あの人と同じように、嘘をつけなければ……



 とても、そんな芸当をやってのける自信はない。自分の言動に細心の注意を払うだけで精一杯だ。金曜日以外の夜など、望むことすらできない。

 ましてや、平日の聖夜など――。




 統合情報局に勤める職員一同の願いが通じたのか、クリスマス前の世界情勢は極めて平穏だった。

 無事に十二月二四日の夕刻を迎えた情報局内は、定時を過ぎて一時間もしないうちに閑散とし始めた。第1部長直轄チームでは、すでに片桐の席が空いている。


「しっかしうちの部長、遅いなあ。空幕くうばく(航空幕僚監部)の会議に出てんだっけ?」 


 直轄班長の松永が壁時計を見ながら、苛ついた声を出した。


「副長(航空幕僚副長)と喧嘩でもしてんじゃないだろうな」

「あのテの会議に、副長は顔出さないでしょう」


 普段はのんびりしている先任の佐伯も、落ち着かない様子を見せる。


防駐官ぼうちゅうかん(防衛駐在官)候補者の人事交流の件で長引いているのかもしれませんね。年明けにそういったプログラムを新規に立ち上げるような話があるとか、そんなことを以前聞いたことありますから」

「面倒くさそうな調整は、年が明けてからやりゃあいいのに」


 珍しく後ろ向きな発言をする松永に、チーム最年長の高峰が口ひげをいじる手を止めた。


「松永2佐も佐伯3佐も、今日はもう引けて下さい。日垣1佐が戻ってきても、おそらく、情報マターでは何もないでしょう。何かあったら連絡入れます」

「いや、そういうわけにも……」


 十以上も年上の部下に遠慮するイガグリ頭に、高峰は「気にせんでください」とにこやかに答えた。


「うちの子供らは、もう成人過ぎてますから、たぶん、日付が変わるまでそれぞれ好き勝手に外で遊び回っとります。もはや、父親の出る幕なぞ全くありませんでね」

「子の成長は喜ばしくも、と言いますが……」

「まさに、淋しいもんです。家族揃ってケーキ食うなんてのは、中学に入るまでですよ。お二人とも、今の時期を大事になさってください。これからは、単身赴任することもそれなりにおありでしょうし」


 松永と佐伯は、どちらからともなく顔を見合わせた。

 四十前後の二人には、それぞれ、小学生の子供がいる。これまでは転居を厭わなかった家族も、進学や教育の問題上、身軽に動くのは年々難しくなっていく。全国転勤を前提とする幹部自衛官にとって、単身赴任は宿命ともいえる。



「日垣1佐は、そういう意味では、本当にお気の毒なもんです。あのお方も結婚して十四、五年になるでしょうが、そのうちの半分くらいは単身赴任の状態だったんじゃないですかね。もしかしたら、子供のランドセル姿はほとんど見ないままだったかもしれません」


 高峰の言葉を聞きながら、美紗は、夏も終わりかけの頃に「いつもの店」で日垣が話していたことを思い出した。

 生まれ育った地元を離れる生活に耐えられなかったという彼の妻。その彼女に対して「もう少し強い人だったら」という思いを抱いたりもした、と語っていた日垣は、それでもやはり、遠い街で家を守る者を深く愛おしんでいたように感じる。



「日垣1佐のお子さんは、もう大きいんですか」


 松永が敬語で高峰に尋ねた。年上の高峰と一対一で話す時は、彼も佐伯も、自然と年長者を敬う口調になるのが常だった。


「確か、上の子が、今……中三、ですかなあ。下の子も、もう中学生になっているでしょう。二年前の今頃ですかね、日垣1佐と家族の話をしたことがあるんですよ。『子供が大きくなると、クリスマスはカミさんと二人だけになってしまう』というようなことを言ったら、日垣1佐、淋しそうな顔しましてね。『そういう時期を迎えるまでには九州に帰ってやりたい』とこぼしていました」


 最後のほうの言葉が、胸のうちを抉る。美紗は、顔から血の気が引くのを感じながら、それを周囲に気取られないよう、下を向いた。


「いつも冷静沈着で隙なく完璧、って感じの人が、何だか意外な……」


 右隣にいるはずの小坂の声が、奇妙に遠く聞こえる。


「……佐になってしまうと、勤務地を選ぶのは難しくないですか?」

「3佐ならまだ融通も利くが、1佐はポスト自体が限られるからなあ。ご当人もそれは当然承知で、人事希望にはずっと『めいのまま』と書いているんだそうだ」

「出世するのも、何だか善し悪しですね。次の任地が九州方面だったらいいですけど」


 丸顔に眉を寄せて悲しげな顔をする3等海佐に、高峰は「どうだろうなあ……」と返して、天井を振り仰いだ。

 美紗はわずかに背を丸め、胸を押さえたくなるのを堪えた。日垣貴仁に家族がいることを、彼がいずれ東京から離れることを、忘れていたわけではない。それでも、その事実を不意に思い知らされると、胸が苦しい。


「まあ、子供が巣立って淋しくなるのは、どこの親も同じです。せめて、残るカミさんと楽しくやれるように、今のうちから気を遣っておくのが吉ですよ、松永2佐」


 突然話を振られた松永は、狼狽した目を高峰に向けた。


「そう、してるつもりですが……、どうやったらいいんですかね?」


 独身の小坂と宮崎が遠慮なく笑うと、イガグリ頭は照れ隠しに声を荒げた。


「大事な話だぞ。お前らも後学のために聞いとけっ」

「拝聴させていただきます」


 調子のいい若手二人に、高峰は苦笑いして肩をすくめた。その横で、佐伯もひょろりとした上半身を高峰の方に向けた。


「いやいや、完璧な策なんて、自分にも分かりませんよ。何となく思うのは、カミさんが淋しそうにしていないか、時々観察していたほうがいいんかな、と。それで、もしそんな様子があったら、ちょっとでいいから構ってやる。単身赴任になってしまうと、それも難しいですが、気になった時に電話一本入れるだけでも、なかなか効果的かと思うんですよ。そういえば、日垣1佐にも『クリスマスには奥さんに電話してやったら』なんて話しましたねえ」


「はあ、そういうもんですか。なるほど……」


 松永は、何か心当たりでもあるのか、さも納得したという顔で何度も頷いた。そして、にわかに顔を曇らせた。


「それじゃ、高峰3佐こそ、今日は早く帰ったほうが」

「いやいや、我が家に関しては心配ご無用です。うちの家内は酒好きでしてね、帰りにシャンパンでも買ってってやれば上機嫌になっちまう、ホントにお気楽な奴なんですよ」


 高峰はにまりと笑った。そして、ちらりと壁時計に目をやると、

「と言うわけで、只今より『班長代理』を拝命いたします。はい皆さん、帰った帰った。班長命令です」

 と言って、手で追い払うジェスチャーをした。


 松永と佐伯が素直に追い立てられていった。


 続いて、宮崎が立ち上がった。よく見ると、普段にもまして艶のあるグレーのスーツに青色のシャツでバッチリ決めている。左腕にはブランド物らしい時計まで光っていた。

 それを、小坂が物欲しげに見つめた。


「宮崎さん、デートのお相手って、……どっち?」

「知りたい? ダイエットに成功したら教えてあげるわよ」


 宮崎はオネエ言葉で鋭く切り返すと、美紗の背後を歩き過ぎながら、低い声で囁いた。


「迷うのは、取りあえず事務所出てからにしなよ」

「えっ……」


 美紗が言葉を継ぐ前に、宮崎の姿は部屋の外へと消えた。


 迷っていることは、ある。それを、優秀な内局部員は見透かしていたというのか。自覚なく、彼の目に付くようなことをしていただろうか。

 自分の昨今の言動を思い返そうとした時、情けない声に呼びかけられた。


「鈴置さあん、やっぱりもう帰っちゃう? 僕サミシイ」


 小坂が、置いてきぼりを食った犬のような顔で美紗を見ていた。


「あの……」

「いいから、帰んなさい」


 割って入った高峰は、美紗のほうに右手を上げつつ、小坂を睨みつけた。


「そういうことばかり言ってるから、に『小僧』って陰口叩かれんだぞ」

「それは片桐のことですよ」

「いや、『海の小僧』って言ってたらしいから、間違いなくお前のことだ。最近、片桐のほうがよっぽどしっかりして見えるしな」

「そんなことないです、絶対!」

「自覚のない小僧め!」


 白髪交じりの3等陸佐と三十代半ばの3等海佐が賑々しく口論を始める。美紗は手早く机の上を片付けると、挨拶もそこそこに第1部のフロアから去った。


 人の歩く足音しか聞こえない廊下に出ると、異様に寒く感じた。美紗は思わず胸元に手をやった。先ほどから感じる鈍い痛みには、覚えがあった。



 あの人と、初めて、あの青いイルミネーションを見に行った時に感じた痛み


 どこまでも、求める想い

 絶え間なく己を責める、現実


 あの時と同じ

 二つが激しく交錯する――。




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