許されざる聖夜(3)


 美紗は、地下鉄を降り、駅の階段を上がった。

 いつもの街の光景が、冷え冷えとした霧の中に浮かぶ幻影のように感じられた。左手に見える高層ビルも、四車線の大通りを行き交う車も、普段にも増して華やいだ雰囲気の人々の姿も、透明な幕のようなものを通して見ているような気がする。


 ここまで来て、いつもの店に行くか、まだ迷っていた。


 十二月に入ってから、「二人の夜」はなかった。忘年会シーズンになると、顔の広い日垣の夜のスケジュールは、週末どころか週の半ばまでほとんど埋まっていたからだ。

 二人で会えないまま年末年始の休みに入ってしまうのだろう、と美紗は思った。自分が職場を出る時には、日垣はまだ会議に出ていた。


 仕事の後、平日のクリスマスイブを、彼はどう過ごすのだろう。

 自分は、本当はどうしたいのだろう……。



 答えが出ないまま、美紗は大通りから細道へと入った。急に周囲が暗くなり、人通りがまばらになった。浮ついたクリスマスソングも行き交う人々のざわめきもすぐに遠ざかり、聞こえるのは自分の靴音だけになっていく。

 下を向いて歩いていると、すぐに通い慣れたビルの前まで来てしまった。


 美紗は、最上階を見上げ、そして、冬の夜空を振り仰いだ。星はない。寒さだけが、顔に振り落ちてくる。それから逃れたくて、反射的に建物の中に入った。

 右手が勝手にエレベーターのボタンを押していた。十五階に着くと、人気のない事務所の脇をゆっくりと通り過ぎ、突き当りで立ち止まった。


 左に曲がるか、やはり引き返すか……。



「いらっしゃいませ、鈴置さん。平日に、お珍しい」


 灰色の髪をオールバックにまとめたマスターが、店の入り口に立っていた。彼の隣には、美紗の背丈と同じくらいの高さのクリスマスツリーが飾られていた。


「ああ、今日はイブでしたね」


 マスターの後ろに、マホガニー調に統一されたいつもの空間が広がっている。眩い光に溢れる賑やかな外の世界から隔絶された「隠れ家」は、あの人の気配を感じさせるしっとりとした雰囲気に満ちていた。


「取りあえず、カウンター席でよろしいですか」

「いえ、今日は……」


 マスターの後について中に入りそうになるのを、美紗は辛うじて堪えた。少し逡巡した後、渋みのある穏やかな目に促されるように、尋ねて良いものかと迷っていたことを口にした。


「あの、日垣さんがここでよく飲んでいるお酒は、……ウイスキーの水割りなんですけど、種類というか、何か決まっているんでしょうか」

「ええ。いつも同じものですね。国産のモルトウイスキーがお好きなようですよ」

「モルト……?」

「実物をお見せしましょう。少々お待ちください」


 マスターは、入り口で立ち止まったままの美紗に軽く会釈すると、静かな足取りで薄暗い店内に入っていった。そして、L字型のカウンターの向こう側にある低い棚にずらりと並んだ瓶のうちのひとつを手にして、戻ってきた。


「日垣様のお好みは、こちらの銘柄です」


 琥珀色の液体が入った瓶にはシックな墨色のラベルが貼られていた。金で箔押しされた二文字の漢字が、店の照明の光を受けて優雅に輝いている。


「これと同じものを、その、……ボトルキープというのは、できますか?」

「ええ、承っております。日垣様のお名前でお預かりするということで、よろしいですか」

「はい」

「……実に配慮の行き届いた贈り物でございますね」


 マスターはわずかに口角を上げ、目を細めた。彼の意味するところを図りかね、美紗は黙ったまま手を胸元にやった。


 ピンクとオレンジの二色に輝く誕生石をくれたあの人に、何がしかの返礼をしたかった。クリスマスがそのいい機会のように思えたが、彼の手元に「鈴置美紗」の痕跡を残すのはためらわれる。

 悩んだ末に思いついたのが、「いつもの店」に彼の好みの銘柄のボトルを入れることだった。それすらも余計なことかもしれないと、迷いながら……。



「お幾らになりますか」

「こちらのものですと、お預かり料込みで、通常は一万円を頂戴しておりますが、鈴置さんのお心配りに免じて、今回は半額で結構でございます」

「でも……」

「残りの分は、私からお二人へのクリスマスプレゼント、ということにいたしましょう。お席をご用意してよろしいですか?」


 美紗はうつむいて唇を引き結んだ。店内を静かに流れるジャズアレンジのクリスマスソングが、ひどく優しい音で美紗の耳元を撫でた。


「今日は……、帰ります。すみません」

「いいんですよ。またのお越しを、お待ちしております」


 マスターは、ただ穏やかに微笑み、ゆったりとした動作で一礼した。


 言われたとおりの金額を支払った美紗は、元来た道をとぼとぼと引き返した。

 再び大通りに出ると、人の波がますます増えたように感じた。二人連れが目に付く。街明かりに照らされる姿は皆、はしゃいでいるように見える。


 自宅へ向かう地下鉄の中で、美紗は高峰の言葉を思い出していた。


『子供が大きくなると、クリスマスはカミさんと二人だけになってしまう、というようなことを言ったら、日垣1佐、淋しそうな顔しましてね。そういう時期を迎えるまでには九州に帰ってやりたい、とこぼしていました』



 あの人が今夜、想うのは

 私じゃない……



 真っ暗な部屋に帰り着き、明かりをつけると、コートを着たまま、小さなソファにうずくまるように座った。また、胸が鈍く痛むような気がする。

 喉元に手をやると、プラチナの華奢なチェーンに触れた。ゆっくりとそれを引き出すと、温かな色合いに輝く誕生石が現れた。それを、美紗はぎゅっと握りしめた。

 これがあの人の精一杯の厚意なのだと、自分に言い聞かせた。



 何も食べないままベッドに潜り込んでいるうちに、眠ってしまっていたらしい。低いバイブレーター音に起こされて枕元の時計を見ると、十時を少し回ったところだった。


 美紗は物憂げに起き上がり、小さなテーブルの上に置いていた携帯端末に目をやった。職場に残っていた小坂からだろうか。何か緊急に対応すべき事案が起こったのかもしれない。

 寒い夜に再び職場に戻るのは億劫だが、急ぎの仕事を無心に片付けているほうが、気は紛れるだろう。


 そんなことを思いながら液晶画面を見た美紗は、息を飲んだ。


 着信していたのは、音声通話ではなく、メールだった。発信元は、日垣貴仁の私用携帯のアドレスになっていた。

 

『素敵なプレゼントを

 ありがたく頂戴します』


 添付されていた画像には、金色の文字が艶めく黒いラベルのボトルと、いつも見慣れた水割りのグラスが、並んで映っていた。



 どうして……?



 美紗は携帯端末を強く握りしめた。



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