ライバルとの対面(3)
「せめて、ランチ会でもアレンジしてくださいよお。『日垣1佐を囲む会』みたいな」
大須賀のため息交じりの声が聞こえ、美紗は、はっと顔を上げた。独り黙考している間に、先輩二人の話題は少し違う方向へ移っていた。
「あの人、そういう目立つの、あまり好きじゃないみたいなんだよね。その場に居合わせた二、三人で小ぢんまりやるってほうが、まだOKしてもらえる可能性高いかな」
「そりゃあアタシだって、人数が少なけりゃ少ないほどいいですよお。サシなら完璧っ」
何を想像し始めたのか、大須賀は急ににやけだした。
「できれば、ランチよりは飲みがいいなあ。お仕事帰りに二人っきり。日垣1佐、どこか雰囲気のいいバーにでも連れてってくれないかなあ」
妄想に耽る彼女の横で、美紗は込み上げてくる何かを急いで飲み込んだ。月に数回訪れる「いつもの店」の情景が、鮮やかに目の前に広がる。
いつもの席から見える夜景が、
いつも水割りを飲んでいるあの人の姿が、
いつも和やかなあの人の笑顔が……。
「きっと、シブイお顔で静かに飲むんだろなあ。ウイスキーとかバーボンとか」
「水割りが好きみたいね」
美紗の頭の中を覗き込んだかのような吉谷の言葉に、胸が不快な鼓動を打つ。
美紗は、いかにもバーが似合いそうな美人顔をちらりと見た。なぜ、吉谷綾子はあの人の好みを知っているのか……。
「吉谷さん、何でも知ってますねえ。何か妬けるう」
大須賀がふざけ半分にローズピンクの唇を尖らせる。
「日垣1佐の行きつけのお店とかあるんですか? あったら、場所調べて待ち伏せしてやるのに」
「今はどうかな。昔は、隠れ家的なお店をひとつ、持ってたみたいだったけど」
吉谷は、なぜか懐かしそうな目をして、天井を見上げた。
吉谷さん、あのお店に行ったことあるの?
日垣さんと、二人で……
「ん? 何、美紗ちゃん?」
柔らかな吉谷の声に、美紗はすくみ上がった。心の中で呟いたはずのことを、うっかり口に出してしまっていたのか……。
「いえっ、何も!」
完全に声が上ずった。洞察力に長けた大先輩は、大きな目をさらに見開いて、不思議そうに美紗を見た。大須賀も、吉谷につられて美紗の方に顔を向ける。
美紗は、何かごまかせるようなセリフを必死に探した。吉谷と大須賀の向こう側を、グレーのワンピースが歩き過ぎるのが見えた。
そのまま女子更衣室を出て行くと思われた八嶋は、しかし、ドアの所で急に意を決したように振り返った。
「部長を狙うとかランチ会とか、そういう話、止めてもらえますか。女は不真面目だって、陰口叩かれる原因になるじゃないですか。迷惑です」
大須賀がローズピンクの口をぽかんと開け、さしもの吉谷も唖然と固まる。
神経質そうな顔にあからさまな憎悪の色を滲ませた八嶋は、しんと静まった部屋の中に苦々しいため息をひとつ残し、ドアの向こうへ消えていった。
「な、何なのあれ? 超ヤな感じ!」
数秒の沈黙の後、大須賀が、女子更衣室の外にまで聞こえそうな大声を出した。
「私たちがうるさかったからじゃない?」
「うるさかったら、さっさと用事済ませて出てけばいいじゃない! あの人、1部の……、誰だっけ? あったまくる!」
なかなか横暴な口をきく大須賀は、いかにも八嶋とは合わなさそうだ。美紗が大須賀の問いに答えるべきか迷っていると、代わりに、吉谷が面倒くさそうに話した。
「事業企画課の八嶋さん。渉外班だから、あまり地域担当部とは縁がないよね」
吉谷は、あらゆる分野の「情報収集」にそつがないのか、人事とは無関係の仕事に携わっているにも関わらず、美紗と同世代の八嶋
話によれば、美紗より一年半ほど早く第1部に配属されたという彼女は、四年制大学を卒業し、国内の外資系企業で三、四年ほど働いた後、年度途中で防衛省に入った、ということだった。入省後はすぐに現職に就いて、今に至るらしい。
ということは、八嶋は、美紗より年齢は数歳上ながら、入省年次では半年分ほど美紗の後輩、という複雑な立場になる。
「まあ、普段から愛想はないわね。私も何回か声かけたことあるけど、迷惑そうにしてたし。それにあの子、ちょっと感情の起伏が激しいところあるみたい。課長班長あたりとよく衝突してる」
「ふうん。気に入らないことがあると我慢できないんだ?」
大須賀は頬杖を突いて口を尖らせた。前かがみになると、豊かすぎる胸がテーブルに触れそうになっている。
「でも、アタシ何かした? 今までろくに話したこともなかったのに。こっちは名前も出てこないくらいだっての」
美紗がほんの少し前に抱いた疑問と同じようなことを、大須賀は喚くように言った。そして突然、「もしかして!」と素っ頓狂な声を上げて、テーブルを叩いた。
「アタシが日垣1佐のこと話してたからあ?」
「何で?」
怪訝な顔をする吉谷に、大須賀はすっかり慌てた様子でまくしたてた。
「さっきの八嶋さん、実は自分が日垣1佐を狙ってたりとか! それで、アタシがカッコイイとか『奥さん代理』とか言いまくってたから、頭きて言いがかりつけた、みたいな……」
「メグさん、何かっていうと『日垣1佐』だよね」
吉谷は、呆れたと言わんばかりに眉をひそめた。しかし、大須賀は、真剣な目つきで、情報局の主と言われる大先輩をじっと見つめた。
「まさか、すでに二人こそこそ付き合ってるなんてこと、ないですよね? 1部はそういう噂話とか全然ないって、吉谷さん、言ってましたもんね?」
「うん? まあ、そんな話は、ないように見えるんだけどな」
「吉谷さん! 『ないように見える』じゃ困るんですよっ。自慢の情報網でばっちり調べてくださいよお」
濃厚メイクの下で血相を変える大須賀に、吉谷はとうとう声をたてて笑い出した。
「はいはい。気を付けて見張っとくね。でも、もしうちの部長と八嶋さんの間にマジなご関係があったら、私なんかには絶対分からないと思うな。日垣1佐は用心深いから」
「そ、それ、どういう意味?」
大須賀が目を丸く見開いて声を落とす。それに合わせるかのように、吉谷も声を低めた。
「あの人、すべての方面に頭切れる人だから。周囲に知れるようなヘマはまずしないと思う。優しそうに見えて、結構ドライだし。相手があんな若いのだったら、下手な行動に出られないように心理的にコントロールするのだって、きっとお手のもの……」
その後の言葉は、もう耳に入ってこなかった。美紗はふらりと立ちあがった。
「あの……、私、戻ります」
「あ、引き留めちゃってごめんね、美紗ちゃん」
吉谷は、がらりと変わって明るい声で手を振ると、すぐに大須賀をからかうようないたずらっぽい表情に戻った。テーブルに残った二人は、昼休みが終わるギリギリまで、第1部長と八嶋香織の話にひそひそと興じるようだった。
女子更衣室の扉を閉めると、不穏な会話は完全に聞こえなくなり、廊下を歩く人間の足音だけが時おり響いていた。
美紗は、二、三歩ほど歩きかけ、立ち止まった。急に目まいのようなものを感じた。
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