マティーニの記憶


「すみません。店を開けるまでは、ここを喫煙所代わりに使うの、控えていただけませんか」


 丁寧な言葉遣いながら、やや尖った声が背後から聞こえた。美紗みさは、はっと息をのみ、体を硬直させた。肩よりやや長い黒髪が、かすかに揺れた。


 眼下に、鮮やかなイルミネーションに彩られた街並みが広がっていた。縦横無尽に走る幹線道路は車のライトで埋め尽くされ、十五階建てのビルの屋上からは、それらが金色に光るビーズを繋いだネックレスのように見える。

 一方、西のほうにわずかに夕焼けの色を残す空には、眩い光にあふれた地上とは対照的に、猫の爪のように細い三日月だけが、ぼんやりと浮かんでいた。雲が出ているわけでもないのに星がほとんど見えないのは、どこの大都会でも同じだ。


「マスター、また鍵かけ忘れて帰ってったのかな。いつか客が落ちるって、いつも言ってるのに……」


 若い男の声が、ぶつぶつと小言を並べながら美紗に近づいてきた。薄暗くなった冷たい屋上に、靴音がやけに大きく響く。

 美紗は、こわばった手を無理やり白い柵から放すと、ぎこちなく声のするほうへ振り向いた。おびえた色を浮かべた黒い瞳が、人の姿を探して暗がりを凝視した。


 白いシャツの上に黒のボウタイを締め、やはり黒いベストとエプロンを身に着けた細身の男が、ほうきと塵取りを持って立っていた。

 ほのかな月の光に照らされた繊細そうな顔立ちには、夜の世界で働く大人の雰囲気と、少年の域をようやく抜け出たばかりのような初々しさが、同居していた。年の頃は、美紗より若干若い、二十代前半といったところだろうか。


 バーテンダーの恰好をした男は、無言のまま、美紗をじろじろと見た。雑居ビルの屋上で厚かましく煙草を吸っているように見えたシルエットの持ち主が、背広ネクタイの中年男ではなく小柄な女だったことに、いささか驚いているようだった。


 彼の無遠慮な視線が体に刺さる。それから逃れたいのに、美紗の足はすくんだように動かなかった。せめて下を向いて少しでも顔を隠そうとしたが、遅かった。


 地味なグレーのスーツに身を包む相手を凝視していたバーテンダーは、突然人懐っこい声を発した。


「あれ? 前にうちの店によく来てました? ええっと……、日垣ひがきさんと一緒に」


 美紗はびくんと体を揺らして、思わず相手を見返した。若いながらも接客のプロである彼は、月明かりで逆光になっていても、客の顔を判別できるらしい。


 バーテンダーは、丸い目を嬉しげに輝かせながら、少し身をかがめて美紗の顔を覗き込んだ。そして、

「ああ、やっぱり。うちの常連さんとは気付かず、失礼しました」

 と、手慣れたしぐさで頭を下げ、爽やかな笑顔を見せた。


 しかし、美紗のほうは、相手の顔に全く見覚えがなかった。


 確かに、階下にあるバーには以前よく通っていたが、店で働く者たちに注意を払う余裕はなかった。

 常に目に映っていたのは、一緒にいたあの人だけだったから……。



 美紗は「いえ、いいんです」と小さくかすれた声で応え、気まずそうに自分の足元に目をやった。

 冷たいコンクリートの上にストッキングだけを履いた足。脇には小さな黒いパンプスが揃えて置かれ、その上にIC定期券が乗せてあった。


「半年ぶりくらいですか? でも、今日はずいぶん早い時間にいらしたんですね」


 バーテンダーは、慌てて靴を履く美紗に気を留めることもなく、

「もうすぐ店を開けますから、下で待っていらしてください」

 と言いながら、転落防止用の安全柵の近くに捨てられた煙草の吸殻を、手早く塵取りの中に収めていった。



 夜空が闇の色を濃くしていく中、安全柵の向こう側に広がる街灯りだけが、ますます輝きを増して、美紗の心を苛んだ。あの光を美しいと思いながらあの人と一緒に眺めたのが、もう何年も、何十年も昔のことのように感じられる。


 美紗は耐えきれずに両手で顔を覆った。はるか下からぼんやりと聞こえてくる都会の喧騒が、かろうじて嗚咽の声を掻き消してくれた。



 先ほどのバーテンダーが勤めているのであろうそのバーは、あの人の行きつけの店だった。あの人に連れられて、美紗が初めてその店を訪れたのは、もう二年半も前のことだ。


 照明を落とした店内で、憂い顔の美紗を「いつもの席」に座らせたあの人は、テーブルに置かれた小さなメニューを手に取り、

「アルコールは弱くなかったよね。好きなものはある?」

 と、静かに聞いた。

 美紗は、ためらいがちに、マティーニを指さした。


 あの人の優しいまなざしも、耳に心地よい低い声も、少しキツめのカクテルの味も、まだ鮮明に覚えている。


 

 ひとしきり静かに泣いた後、静寂に気付いた美紗は、顔を上げ、頼りない月明かりに照らされた屋上を見回した。


 バーテンダーの姿は、いつの間にかなくなっていた。屋内に通じる扉は開いたままだったが、周囲には誰もいない。


 変なところを見られなくてよかった、と、美紗は安堵した。そして突然、なぜ自分はここにいるのだろう、と思った。

 この屋上に来るまでのことを思い出そうとしたが、一時間ほど前からの記憶がすっぽり抜け落ちていた。一つだけ確かなのは、明日を迎えたくないという思いで、ずっと胸がつぶれそうになっていることだった。



 最期にあの人との思い出に浸るつもりで、ここに来たのだろうか。

 最期のマティーニを飲みたかったのだろうか。


 でも、もういい。

 思い出も、自分自身も、すべてを闇夜に消してしまいたい。




「お待たせしました。店、開けましたよ」


 横からふいに割り込んできた黒い影に、視界を奪われた。


 月明りを遮ったそれが先ほどのバーテンダーだと気付くまでに、数秒の時間を要した。互いの体が接するほど近い位置に立つそのシルエットは、意外にもかなりの長身だった。



 あの人と同じくらいの背丈だ……



 美紗は胸がつきんと痛むのを感じた。


「今日はお一人様でよろしいですか。ご案内いたします」


 月の光の下に露わになったバーテンダーの男の顔には、先ほどの初々しい表情が全くなくなっていた。美紗よりもずっと年上の人間が持つ、成熟した雰囲気が漂う。


「でも、あの、今……お金を全然……」


 言いかけて、美紗は狼狽を隠せず口ごもった。ビジネススーツを着ているのに鞄も持たない一文無し、というのはいかにも不自然だ。

 しかし、バーテンダーは、にこやかな営業スマイルのまま、さらに美紗を誘った。


「当店も先週、スマホのカード決済サービスを入れたんですよ。そういったものは、普段ご利用ではありませんか?」


 美紗は、バーテンダーの質問に「いいえ」と短く答え、足元に目をやった。靴を脱いだ時にIC定期券と一緒に置いたと思っていた携帯端末は、どこにも見当たらなかった。


「携帯、失くしちゃったみたい……」


 美紗は他人事のように呟いた。


「それは大変ですね。今から探しに行かれますか?」


 そう言うバーテンダーのほうも、のんきな口ぶりだった。まるで、美紗が紛失した携帯端末を探す気がないことを、承知しているかのようだ。


「明日でいいなら、今日は是非、うちで飲んでいらしてください。常連さんならツケ払いで結構ですから、ご心配なく」


 気取った笑みを浮かべたバーテンダーの提案に、美紗はわずかに首を横に振り、NOの意思表示をした。


 自分には後で支払いに来る機会はない。

 しかし、会ったばかりの人間に対して、それを口にするのはためらわれる。


 沈黙したまま、美紗は、小さく一歩、また一歩、と後ずさった。さっきまで痺れたようになっていた足が普通に動くことを確かめると、バーテンダーに背を向け、ビル内に通じる入口へと走った。


 軽い足音が暗闇に響く。


 大きく開けられたドアの脇を通って屋内に飛び込んだ美紗は、転びそうになりながら、狭い階段を駆け下りた。



 踊り場まで降りたところで、白いものが行く手を遮った。


 階段の手すりに右手をつき、やや身をかがめたバーテンダーが、鋭い目で美紗を見据えていた。白いシャツの袖口から出る骨太い手は、片手で小柄な女一人の動きを容易に封じられそうなほど大きかった。


「ホットカクテルでもいかがですか。今日は一月にしてはずいぶん暖かい陽気でしたけど、この時間に上着もなしで外にずっといたんじゃ、体がすっかり冷え切っているでしょ?」


 つい先ほどとはガラリと違う低い声は、威圧感さえ帯びていた。この男がいつ自分を追い越して先にビルの中に入ったのか、美紗には全く分からなかった。この期に及んで怖いものなどないはずなのに、その場に座り込んでしまいそうなほど体が震える。


「それとも思い出のカクテルがいい? 死にたいほど沈んだ気分の時にいきなりマティーニじゃ、悪酔いすると思うけどね」


 突然ぞんざいな口をきいたバーテンダーの顔を、美紗は驚愕の表情で見上げた。



 この人は、どこまで知っているの?





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