ハンターの眼差し
あはは、と、征は白い歯を見せて笑った。当時の片桐よりさらに五歳以上若いと思われるバーテンダーは、表情を崩すと、すっかり少年の顔になってしまっていた。
「鈴置さんの周り、面白い人達だったんですねえ。軍とか自衛隊って、上下関係がすごく厳しいと思ってたけど、日垣さん、優しいから、下の人にまで使われちゃってたんですか?」
「そんなことはないけど……、中央勤務は少し特殊なんです。『下の人』と言っても、私がいたチームの班長さんも海軍の中佐に相当する人で、部隊に戻れば大きな艦の艦長を務める立場なんですよ」
美紗は、分かる範囲で、自衛隊の人事システムのことを征に説明した。
自衛隊幹部は、特に事情のない限り、地方部隊と中央組織を往復するように異動しながら、経験とキャリアを積んでいく。しかし、両者の勤務環境は大きく異なっている。
厳格な指揮系統の下で管理される一般的な地方部隊では、3佐、2佐クラスが、何十人、何百人という人間を配下に置き、部隊長として大きな権限を振るう。しかし、中央組織に来た途端、彼らの多くは、「長」の肩書どころか部下の一人も与えられず、一班員として処遇される羽目になる。
各
第1部長の日垣は、現階級での在任期間の長さから、1佐の中でもより権限の大きい職に就き、人事から保全まで計六課、総勢百名余りを管理する立場にあった。
しかし、情報局の重要な役割の一つである「情報提供」の側面では、情報局の内外をつなぐ調整役として彼の手足となるのは、美紗を含めわずか八名で構成される直轄チームのみだった。
必然的に、第1部長と直轄チームの関係は、他の所属課に比して格段に強くなる。実際、日垣は非常に直轄チームを重宝していた。
一方、当時の直轄チームのメンバーも、第1部長の気さくな性格のためなのか、上官に深い尊敬の念と、そして、やや厚かましいほどの親近感を抱いていたようだった。
「距離が近かったせいか、とにかくみんな遠慮が無かったように見えました。よく考えると、変ですよね」
美紗は、その当時の幹部たちの滑稽なやり取りを思い出し、懐かしそうに微笑んだ。頭上のアンティークなペンダントライトが、穏やかな、しかし寂しげな顔に、柔らかな光を落とす。
「日垣さん、なんでも許しちゃう感じですもんね」
征も藍色の目に同じ光を映しながら、静かに相槌を打った。そして、急に思いついたように、身を乗り出して尋ねた。
「じゃあ、もし、日垣さんが『中央勤務』じゃないところにいったら? 超エラい人?」
「私は一般部隊で働いた経験がないのでよく分からないんですが、チームにいた人の話では、日垣さんは、部隊にいれば小さな基地の司令相当だって……」
「司令官? へええ、カッコイイ!」
征は腰を浮かすと、興奮した声を上げた。戦闘機の飛び交うミリタリー映画でも連想したのだろう。若いバーテンダーは、昔の常連客を頭の中で勝手に厳めしい司令官役に変身させ、独りよがりな妄想をひとしきり語った。
そしてようやく、美紗の前に置いてあるコリンズグラスが空になっているのに気付いた。
「あ、すいません。つい、面白くて。もう少し飲まれます?」
征は、メニューを開いて、美紗に見せた。
「じゃあ、今度は甘めのものを」
躊躇なく言ってしまってから、美紗は自分自身の言動に驚いた。支払いができないのに、それを分かっていてオーダーを頼んでしまった。
慌てて取り消そうとしたが、征はそれより早く、「かしこまりました」と言って、カウンターのほうに行ってしまった。
一人、席に残された美紗は、課業時間中ですら騒々しかった職場のことを思い出した。
自分より数歳年上の片桐は、特に口数が多く、プライベートなことでも全く構わず喋っていた。当時の美紗が抱えていたものと同じような悩みも、やはり隠すことなく愚痴っていた。
その彼も、大きな試練を乗り越え、昨年度末に転属していった。
新たな勤務地で切磋琢磨しているであろう彼が、もし今の自分の姿を見たら、何と言うだろう……。
「お待たせしました」
征の声が美紗の回想を途切れさせた。
征は、ボウル部分が逆円錐形の形をした小さなカクテルグラスを、トレイからテーブルの上に移した。中に入っている深い紅褐色の液体が、店のシックな空間と美しく調和していた。
「これはハンターというカクテルです。チェリーブランデーが入っているので甘いですけど、結構強いですよ」
グラスに口を付けると、フルーティな香りと共に、ウイスキーのコクのある味が、舌の両横をすり抜け、のどの奥へと落ちていった。美紗は、その一口をゆっくりと味わい、小さく息を吐いた。
「本当……。少し、喉が熱くなる感じ」
「中身の七割くらいはウイスキーですから。用心して飲まないと、撃ち落とされて動けなくなりますよ」
征は、右手で銃の形を作り、気取った声でささやいた。しかし、美紗の近くに寄せた彼の顔は、やはり子供っぽく、セリフと雰囲気が全く合わなかった。
「はあ、やっぱり、僕がやってもバカみたいですよね」
「そんなことないですよ。篠野さん、時々大人っぽく見えますよ」
それは本当のことだった。屋上の月明かりの中にいた征は、時折、美紗よりもずいぶん年上に見えた。
屋上から階下につながる階段で、逃げようとする美紗の行く手を遮った彼は、凄みすら感じるような低い声で、弱い存在を弄ぶタチの悪い男のような口をきいた。あの話し方なら、さっきのセリフもかなりそれらしく聞こえるだろう。
「大人っぽく? どんな時にそう見えます?」
「お店に入る前とか……。でも、大人っぽいというより……」
意地悪な感じで怖かった、と言うわけにもいかずに美紗が言葉を選んでいると、征の方が先に自嘲的な笑い声を漏らした。
「いいんです。似合わないの知ってますから。カクテル言葉の話でもしてるほうが、まだマシですよね」
「素敵なお話です。カクテル言葉」
美紗は、深い紅褐色のカクテルを見ながら、表情を和ませた。なぜか心を落ち着かせる、不思議な色だ。
一方、征は、ほころぶような笑顔を満面に浮かべた。
「そう言ってもらえると、嬉しいです。ハンターのカクテル言葉、何だと思います?」
「名前が『狩りをする人』なら、カクテル言葉は……『拘束』かな。それとも、『私のもの』とか……」
美紗は、思い付くままに言ってから、赤面した。あの人のことを「私のもの」などと思ったことは一度もなかった。
なかったつもりだった。
気まずいものを感じて恐る恐る征のほうを見ると、案の定、彼は目を丸くして、美紗をまじまじと見つめていた。
「ごめんなさい。品のないことを言って……」
小柄な体をますます小さくする美紗に、征は慌てて首を振った。
「刺激的な言葉で、いいじゃないですか。でも、正解は、『予期せぬ出来事』です。あまり、カクテルの名前そのものとはつながらないですよね」
美紗は、シックな色合いのカクテルが持つ言葉を口の中で繰り返すと、急に押し黙った。恥ずかしそうな当惑顔が、また曇った。
「何かあったんですか? 予期しなかったこと……」
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