ブルーラグーンの言葉


「あの時のバーテンダーさんが……、もしかして、篠野さん?」


 美紗にまじまじと見つめられた征は、「へ?」と素っ頓狂な声を出した。


「そ、そそ、それは、ないですよ。だって、それって、一昨年の夏の話なんでしょ? 僕がここで働き始めたのって、去年の年明けからだし」


 丸い藍色の目が、まるで落ち着きなく、くるくると動く。


「そう……ですよね。それに、あの時のバーテンダーさん、富澤3佐と同じくらいの年の人かと思ったから、たぶん、三二、三歳か、それよりもっと上……」

「僕、そんなに老けて見えます?」


 憮然と自分の顔を指さしたバーテンダーは、どう見ても、三十過ぎには見えなかった。


「いえっ……。もしかしたら、私より、年下……」

「鈴置さん、今何歳、って聞いちゃダメか」

「二七です」

「じゃあ、僕のほうが下です! 僕、一年半で十歳くらい若返ったってんですか? それって何つうか、ホラーですよ!」


 征は、衝立の向こうに聞こえそうなほど大きな声で、はしゃぐように笑った。こげ茶色の髪を揺らす彼は、ますます幼顔になり、バーテンダーの服よりも学生服が似合いそうだった。


「三十過ぎで目立つ色のカラコンしてるなんて、かなりレアですけど、こういう業界では、いるっちゃいますよ」

「そうですか。……バーテンダーさんって、どの年代の方もお洒落なんですね」

「うちのマスターだって、開店の直前まで髪いじってますから」


 征は、髪を後ろに撫でつけるジェスチャーをすると、また声を立てて笑った。つられて美紗も少し笑顔になった。


「変なこと言ってごめんなさい。もし、あの時のバーテンダーさんが篠野さんだったら、カクテル言葉を教えてくれてたはずですよね」

「あ、僕がマスターと一緒にカクテル言葉を覚えるようになったのは、半年くらい前からなんですよ。お客さんで、そういうの詳しい人がいて」

「女の方?」

「すっげえデブのおっさん、です」


 うっかり地が出た征は、最後にかろうじて丁寧語を付け足すと、愛嬌のある照れ笑いを浮かべた。美紗がクスリと笑うと、彼はますます嬉しそうに話し続けた。


「そのお客さん、婚活中の部下にカクテル言葉をいくつか教えたら一か月くらいで無事に結婚してくれたんだ、って自慢してて、それ聞いたうちのマスターがすっかり喜んじゃって」

「カクテル言葉がきっかけで、結婚?」

「女の人って、そういうの好きなのかな? カクテル言葉で口説かれて結婚しちゃうって、アリですか?」


 好奇心に輝く藍色の目が、美紗を覗き込んでくる。美紗は苦笑いしながら、しばし思案した。

 カクテルのうんちくが人生の選択に大きな影響を及ぼすとは思えないが、些細な言葉やその場の雰囲気に心が揺れる経験は、それなりにある。


「最後の最後に背中を押されるきっかけには、なるかもしれない、ですね」

「ホントに? じゃあ、僕も将来に備えて覚えなきゃ!」


 期待以上の回答を得た征は、高価なおもちゃを買ってもらえることになった子供のような笑顔になった。

 美紗は、嬉しげに目を輝かせる若いバーテンダーを眩しそうに見つめた。そして、彼の作ったブルーラグーンのカクテルグラスを再び口に運んだ。


 同じ「青い礁湖」という名前のカクテルでありながら、以前に飲んだものとはかなり印象が違う。


 名も知らぬ藍色の目のバーテンダーが美紗をイメージして作った、という特別なブルーラグーンは、もっとレモンの酸味が強かった。

 あの後、無表情がかえって印象的ですらあったそのバーテンダーの姿を、見ることはなかった。しかし、この店でブルーラグーンを頼むと、出てくるのは必ず、ソーダが入った深い青の「特別なブルーラグーン」だったような気がする。



 まだグラスの中に三分の二ほども残る透き通った青いカクテルを見つめながら、美紗はふと思いついたことを征に尋ねた。


「聞くのを忘れてました。このブルーラグーンにも、カクテル言葉はあるんですか」

「ありますよ。『誠実な愛』っていうんです。あ、これもなかなか使える言葉……」


 征は、何か企むかのように、藍色の瞳をくるりと動かした。その彼の前で、カクテルグラスが無作法な音と共にテーブルの上に置かれた。

 こぼれそうになる青い液体の向こうで、美紗が蒼白な顔で震えていた。


「私は、……このカクテルには、相応しくありません」

「え? な、何で?」


 ついさっきまで静かな笑顔を見せていた客の豹変ぶりに、征はすっかり慌てた。


「私は、誠実なんかじゃ、ないから……」

「そ、そんなこと、ないでしょ」

「誠実だったら、……あんなことしてない!」


 美紗は、我を忘れたように掠れた声を上げ、両手で顔を覆った。



       ******



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