アイリッシュ・コーヒーの温もり(2)

「前に日垣さんとマスターがそんな話してるのを聞いたことあるんです。それで、日垣さんと来てた鈴置さんも……」


 そこまで言って、ようやく征は話すのを止めた。客の様子が落ち着かない理由を、誤解したようだった。


「あ、お、おおお、お仕事の話するのって、もしかして、かなりヤバい?」


 美紗は下を向いたまま、かすかに笑みを浮かべた。この若いバーテンダーは本当に新米なのだろう。客を苦笑いさせるのが大の得意らしい。


「篠野さんの言うとおり、私は防衛省の職員で、今は統合情報局に勤務しています」

「いいの? そんなハッキリ言っちゃって……。後で『正体を知った奴は消す』とか言われたら、すごく困るんですけど!」


 征は慌てて席を立とうとした。美紗は小さく笑って彼を止め、指を口に当てた。


「そんな声出さないで。所属くらいは公にしても問題ないから。細かい話はあまりできないけど、でも、うちの職場に変な道具抱えて人の家に忍び込んだりする人はいない、と思う」

「え、『思う』なの? じゃ、もしかしたらホントはいるかもしれないってこと?」


 征はひきつった声を出した。頭の中がすっかりスパイ映画のワンシーンになってしまったようだ。美紗は困った顔をして、征の現実離れした推測を否定した。


「私は事務職だし、情報局に配置されてまだ三年目だから、知らないこともたくさんあるの。立ち入れない所もあるし……。でも、統合情報局は、基本的には軍事情報専門のシンクタンクって感じです。人込みに紛れて隠密行動なんて、警察の方のお仕事ですよ」


 そう説明しても、征は目を大きく見開いたまま、美紗をまじまじと見つめるばかりだった。窓ガラスに映る街明かりのせいなのか、驚きを正直に表す若いバーテンダーの瞳は、澄んだ藍色に揺れていた。



 アイリッシュ・コーヒーを飲み干す頃には、美紗はなぜか、久しぶりに心が静かになっていくのを感じていた。体の中に温かさと甘さが広がるにつれ、この若いバーテンダーに対する戸惑いと親近感が、心の中でゆらりと混ざり合っていく。

 まるで、カクテルグラスに注がれた二色の液体が、熟練のバーテンダーによって優しくステアされていくように……。



「よろしかったら、次はさっぱりめのテイストのものをお持ちしますよ」


 空になったホットグラスを見つめていた美紗は、落ち着いた声に問いかけられ、驚いて顔を上げた。


 美紗を柔らかな眼差しで見つめるバーテンダーは、つい先ほど客の勤め先を聞いて慌てふためいた若者とは、目鼻立ちは同じでも、全く別の人間のように見えた。かなり年上、というよりも、あの人と同じくらいの年齢の、包容力を感じさせる大人の男性の雰囲気が、ゆったりと漂っている。


 美紗は、吸い寄せられるように征を見つめ返した。

 藍色の目が、深い光を湛えて、美紗を圧倒する。


「ここは、あなたの大事な思い出がたくさん詰まった席なんでしょう? 最後に、少しの間だけ、心を休めていってはいかがですか」



 最期に、少しの間だけ、心を休めていってはいかがですか



 美紗は無言で頷き、下を向いた。




*アイリッシュ・コーヒー

  ウィスキーベース/中甘口

  アルコール度数 5度

  カクテル言葉:「暖めて」


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