第4章 二杯のシンガポール・スリング

二杯のシンガポール・スリング


 征は、黒いエプロンのポケットから、オーダー用紙が挟んである小さなクリップボードを取り出した。


「これがどうかしましたか? もしかして、スマホにでも見えました?」


 意地悪そうな顔が、人を小馬鹿にしたような笑いを漏らす。美紗は、逃げるように窓際に身を寄せながら、鋭い目をしたバーテンダーを見上げた。

 屋上から階段を駆け降りた時に見たのと、同じ顔だ。ぞんざいで、威圧的な、弱い存在を弄ぶ男の顔――。


「何でも……ありません。それより、今の話……」

「先ほどのハンターも相当強いはずなのに、まだほろ酔い気分にもなれないという感じですね。次は何がいいかなあ」


 征は、美紗に最後まで言わせず、藍色の目を細めると、足音もたてずにテーブル席から離れていった。

 一人その場に残された美紗は、はっと立ちあがると、そばにある衝立から顔を出して、征の姿を追った。彼が店の外に出てどこかに電話を入れるつもりなのかと、焦った。



 すらりとした長身のシルエットは、大股でカウンターのほうへと歩いていった。

 いつの間にか、カウンター席の半分ほどが、常連らしい客で埋まっている。


 彼らと談笑するマスターの横で、征はシェーカーを振り始めた。その姿はなかなか堂に入っていた。

 リズミカルな音が、店の一番奥にいる美紗の耳にも届く。


 やがて征は、背の高いコリンズグラスに入ったカクテルを二つ、運んできた。スライスされたレモンが差し入れられたグラスの中は、上半分が淡いレモン色に輝き、底の方ではチェリーブランデーの濃赤色が優雅に揺らめいていた。


「シンガポール・スリングをお持ちしました。カクテル言葉は『秘密』です。一緒に飲んで、秘密を守りましょう。僕は、今聞いた話を死ぬまで誰にも話さないと、約束します。だから、鈴置さんも……、同じように約束してください」


 やや遠慮がちに「約束の盃」を促す征は、少年のような幼さを残す優しい笑顔に戻っていた。

 美紗は、炭酸の泡が小さくはじけるカクテルの向こうにいるバーテンダーを、恐々と窺い見た。つい先ほどの剣呑な言動は、何だったのだろう。自分が少し動揺していたせいで、そんなふうに見えただけだろうか。


「ごめんなさい。私が気を付けなきゃいけないことなのに」


 美紗は二つの色が混じり合うカクテルを飲んだ。レモンの酸味と炭酸が織りなす爽やかさに続き、艶っぽい甘さが口の中に静かに広がっていく。

 その小粋な味わいは、いつも華やかで朗らかだった女性職員のことを、にわかに思い起こさせた。二十歳近くも年上だった彼女は、美紗が手に入れたいと望むすべてのものを持つ、理想の女性ひとだった。


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