9.3

「好きとか一緒にいたいとか、もしかして先生は、私を抱きたいんですか?」

 すぐに彼女の顔は、にやぁ、と時間を回復した。

「おっと、そうなるかの。いや、うーん……」

「本当は俺の女なのに、抱かなかったから、浮気するかもしれない、とか? 私が他の男子と仲良くなるかもしれないって。それで気になって、苛々して、こんなことしたんです?」

「……月島は鋭いのか鈍いのか。答えにくい質問なのに、どこか外れてるなぁ」

 私は、かゆくもない頭をかいてしまう。

「言ってくれればよかったのに。私、何でもしてあげましたよ?」

 私を見下すように、彼女は口角をつり上げる。

 これなら私を支配できる、もう逃げられることはない。そんな確信があるように見えた。彼女は握っていた袖口をもてあそび始める。

「まあ、隠しごとをしても仕方がない。建前はよくないって反省したばかりだしな」

 彼女の笑みを上書きするように、私もにやりと口角をあげる。

「ちょうど月島との関係が話題になったとき、お前が私に抱きついてきたことがあったな。シャツを脱いで、首に腕を回してきて。あのときは、どうにかなってしまうと思った。ショックで憔悴してなかったら、そのまま関係ができてしまったと思う。それくらい月島はきれいだからな。男として先生をするには、目の毒がすぎる。ずっと一緒にいてくれて料理だって作ってくれた。私にとって月島の魅力は十二分だ」

「嬉しいこと言ってくれるんですね。だったら先生の家で続きをします――」

「――いや、しない」

 即答が予想外だったのだろう。

 月島の顔はあっけにとられていた。私はわざと、口をへの字に曲げる。

「ちょっと意地悪な質問をするけどな、じゃあ月島は私に抱かれたいのか? それだけ私のことが好きなのか?」

「……」

「前にも言ったじゃないか。私の化けの皮を剥ぎたいんだって。で、剥がれた。情けない、引きこもり体質の、軟弱な人間の顔だっただろう? 月島を抱くのは吝かじゃないが、月島はこんな人間に抱かれてもいいのか?」

 左袖を握っていた手は、いつの間にか離れていた。月島はだらりと手をぶら下げている。

 言葉は流れない。ただビル風に吹かれて、ほこりが舞いあがるばかり。

「ずっと不思議だったんだ。どうして月島は、私に関わろうとするのかって」

「…………」

「悪戯にしては手が込んでる。私のことが好きなわけじゃないのに言い寄ってきたり。千早先生のことを予行演習だと言ったり、あれこれ手段を尽くしたり」

「……先生は、とにかく私を抱けばいいんです。抱きたいんだか――」

「――昨日、中学校に行ってきたんだ、月島が通っていた。そこで担任の先生から話を聞いてきた」

 彼女は瞳孔を拡げ、口をきつく閉じた。

「月島の担任だからと言ったら、すぐに応じてくれた。荒れた中学校だったのに、お前は誰にも染まらずにいたって。けど、誰かと親しそうに話し込んだりしない、問題行動を起こさないけれど一番気にかけないといけないタイプの生徒だったって」

「……だから、どうだというんですか」

「自動改札口だなって」

「え?」

「月島は、世界なんて狭いほうがいいって。そんな話をしてくれたよな。自分で考えるなんてことしなくていい。みんな他人が決めてくれるって。だから自動改札口を通るように、生きればいいんだって」

「……当たり前じゃないですか」

「それはそれで賢い選択だと思うし、月島がそうしたいのなら、私は尊重する。ただ、あの台詞を聞いたとき、なぜか月島が辛そうに見えたんだ。必死になって何かを叫んでいるように聞こえた」

「……先生が、馬鹿すぎたから、呆れてたんです」

 私は、大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 これから話すことは、間違いなく月島にとっては気持ちのいい内容ではない。私の言葉で、月島との関係を切ってしまうかもしれない。

 ――だけど、言わなければいけない。

「月島は、ただ寂しかったんじゃないか?」

 ガラス細工のような瞳は、みるみる大きくなる。

 真っ直ぐ動かないまま、さまざまな感情の色が、双眼に混ざり込む。

「世界は狭いほうがいいっていう言葉は、自分が狭いところしか知らないってことに気づいてないと言えないものだ。本当に世界の狭い人間は、自分のことを広いって言う。そこしか知らないからな。だけど月島は違った。あの発言は、他人と関わろうとしなかった月島が、自分を客観的に眺めながら、慰めようとしているように聞こえたんだ」

「違います」

「他人という異物が入ってくれば、自分の世界は変わってしまう。それはとても怖いことだ。だから誰も入れさせない。それは安心できるかもしれないけれど、寂しい世界だ」

「言ってる意味が分かりません」

「門田とは対等の関係じゃないし、他の生徒と仲良くしている姿を見たこともない。最初に屋上で会ったときに、気づけばよかったんだ。どうやってお前は、ここにたどり着くことができたのかって。それはたぶん、誰も気に留めてくれなかったから、じゃないか?」

「……知りません」

「千早先生は優しい人だった。会ってみて思ったが、月島の予行演習という言葉は嘘だったんじゃないかって。優しくて、話を聞いてくれて、それで月島も好意を抱いたんじゃないか。けど、一歩踏み込まれて、怖くて逃げ出した。ただそれだけのことのようにも思った」

「…………」

「そして次に、たまたま、視界に映ったのが私なんだろう。自分の世界を守って、そこに囲い込むのに、私がちょうどよかった。入学式のときから目をつけていたらしいが、本当はそこまで考えてなかったんじゃないか。千早先生とのことがあったから、たまたま、私のことを思い出した」

 月島はもうしゃべらなくなっていた。

 私の言うことを、ただ受け止めるだけで精一杯に見える。ただ足元に視線を落とし、じっとしている。

「月島、お前を助けたい」

 それでも私は、話すことを止めない。

「……何を言ってるんですか」

「もう月島のことを知ってしまって、私の世界に月島がいる。無視はできないんだ」

「……気持ち悪い、たまたまのくせに」

「月島にとっては単なる『たまたま』でも、私にとっては大切な『たまたま』だ。もう月島が一人ぼっちにならないよう、何でもすると決めた」

「気持ち悪いから、放っておいて、よ……」

「私はこんな人間だが、力になれることはある。もし門田と仲良くなりたいんだったら、私をダシに使えばいい。吹奏楽部にだって顔を出す。佐々岡が気になっているんだったら、男子バレー部に遊びに来てくれ。いつでも練習を中断して時間を作る。そうだ、お母さんとも話をしよう。月島の学校での様子を教えてあげたら、きっと喜ぶぞ。深夜でないと難しいのなら、私が時間を合わせる」

「止めて……いい迷惑だから……」

「お前のことをいじめている奴は、今から一人ずつ、私が説得していく。お前は悪くなんかないんだと分からせる。多崎先生にだって、月島のいいところをたくさん話す。もし愚痴が言いたくなったら、私に連絡すればいい。勉強を教えて欲しいときだって一緒だ」

「うるさい。そんなことするな。邪魔だから」

「そうだ、料理のお礼もしなければ――」

「――だから気持ち悪いって言ってるでしょ!!」

 月島は、両手で私を突き飛ばした。

「さっきから聞いてれば好き勝手言って! 私が寂しい!? 助けてあげたい!? 私のこと一方的に決めつけて馬鹿じゃないの!? 主人公気どりで自分に酔って、哀れな生徒の味方をしているつもり!?」

「……月島」

「どこの小学生よ! お友達作ってあげる? 話し相手になる? 高校生相手に、どうしてそんな気持ち悪い台詞が言えるの!?」

「すまない、言い方が悪かったのなら謝る」

 私は彼女に手を差し伸べようとするが、勢いよく打ち払われてしまう。

「意味が分からないんですよ! 私を抱きたいんじゃなかったら、一体何が目的なわけ!? 先生だからとか、生徒だからとか、何とかしなきゃって、まだそういうこと言うつもり!?」

 両目を真っ赤にし、歯を剥き出しながら、激高する。

 その姿は、恐ろしいというよりも弱々しいものに見えた。弱点を隠し、誰からも理解されないように身を守り、侵入者を威嚇する。ファミリーレストランでの会話が、ふと脳裏をよぎった。

「千早先生がな……」

 私はゆっくりと口を開いた。

「人間はみんな弱いって言ってたんだ。強そうに見えるのは、それは弱いところを隠そうとして皮を被っているからなんだって」

「だから私を弱い者扱いして、同情してあげようって――」

「――違う。私のことだと、思ったんだ」

 月島は何かを言おうと口を開いたまま、不意に動きを止めた。

「先生と生徒っていう関係に逃げている。自分の気持ちに向き合いたくなかったんだ、私は。そんなことをしたら皮が破れてしまう。恐ろしくて耐えられないと思った」

 半開きだった口を、月島は閉じる。

 敵意のこもった視線は変わらないが、それでも言葉を差し挟みはしない。

「いつだったか、佐々岡に聞かれたんだ。先生は月島の気持ちにどう応えるんですかって。そのとき私は、先生と生徒だからあり得ないと否定したけれど、本当は分かっていたんだ。気づいていてそれを認める勇気がなかったんだ」

「……気持ちって、それ――」

「――月島が好きだ」

 屋上に吹き込んでいた風が、一瞬だけ止んだ。

「千早先生は私だったんだ。先生は行動を起こして、残念な結果になってしまったけれど、私はそれすらできなかった。そのことに気づいて、私は馬鹿だと思った」

「…………」

「月島はたしかに私のことが好きだと言ってくれたし、抱かれてもいいとまで宣言した。でもこんなのは違う。お互いに対等な関係に立って、そこからがようやくスタートになる」

 もちろん私たちは先生と生徒だ、と続ける。

「その意味じゃ対等じゃない。でもそれ以外の関係でつながれば違ってくる。そう思って学校に戻ってきたんだ」

 月島は動かない。

 伏し目がちに、表情を曇らせ、じっとしている。

「やっぱり私は馬鹿なのだろう。先生と生徒でありつつ、男と女でもあろうとしている。好き勝手にしようとしたら、こんな結論しか出せなかったんだ。でも、こうしたい。これが一番いいって、そう思っている」

 さらに一歩、私は彼女に近寄る。

「月島の気持ちを聞かせてくれ。月島はどうしたいんだ? 私のことが嫌なのなら、そう言ってくれ。すぐにでも先生と生徒の関係に戻る。でもそうじゃないのなら――」

「――さようなら」

 すると月島は、いきなり向きを変えて、屋上の出口へと駆け出した。

「待ってくれ!」

 とっさに彼女の手を握るが、すぐに振りほどかれてしまう。それでも私は勢いよく走り、出口の前に立ちふさがった。

「……どいて、ください」

「嫌だ」

「なん、で」

「まだ月島の返事を聞かせてもらってないからだ」

「…………」

「私は、正直に言った。今度は月島の番だ」

 彼女は必死になって頭をふる。

 その髪は激しく頬を打ち続ける。

「もし今ここで帰ってしまったら、また同じことの繰り返しになるんじゃないのか……? 月島はそれでいいのか……?」

 その問いかけが合図だったかのように、月島は小刻みに震えだした。言葉になりきらない発声が、風に紛れて、耳元に届いてくる。

「月島はどうしたいんだ? このまま一人がいいのか? 私だと嫌なのか……」

 屋上の凪いだ風が、彼女の返事を待つ。

「……わ、私」

 月島は握り拳を作った。

 今にもかき消えそう声だが、その声はたしかに言葉になっている。

「せ、先生が……、先生、と、が、いい……!」

 彼女は絞り出すようにして、ようやくその言葉を言った。

 両の瞳は液体を流している。

「一人は嫌です……、一緒にいて欲しいです……! 先生、一人にしないで……置いていかないで……! わ、私を、私を見てください……! ずっと一人は、嫌です……!」

「分かった」

 私は、彼女を抱き寄せた。

 月島はしばらくの間、額を沈めて泣いていた。

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