9.1

 逆剥け状態になった、壁面の塗装に、壁から剥がれ落ちた、その残骸。

 隅に吹き溜まった、木くずやほこり。真っ赤に錆びついた金網のフェンス。

 久しぶりに訪れたそこは、相変わらず人気のない、閑散とした場所だった。

 私は、その中央まで移動し、野外の風景を見下ろす。緑に染まっていた初夏とは違い、視界には紅葉した山々が連なる。

 初めて彼女と、二人だけで話をした思い出の場所。

 ぎいぃぃ。

 背後から、蝶番のさびた扉の音がした。ばり、ばり、ばり、と剥げ落ちた塗装を、踏み砕く足音が近づいてくる。すぐ背後まで迫ると、その場で止まった。

「わざわざすまない」

 背後を振り向く。

 無表情のまま、こちらを眺めている、黒髪の女子生徒が立っていた。

「二人だけで話をしたくてな。人目を避けて来るのは大変だったんじゃないか?」

 彼女は、一回だけ、首を左右にふった。

 屋上に強風が吹き込んでくる。私は両目を閉じ、ジャケットのボタンを閉じた。

「昨日な、ようやく『校舎の空白』を読み終えたんだ。引きこもる前にゆっくり読んでいたんだが、時間がかかってしまって」

「……何ですか、それ」

「忘れたのか? ここで面白くないって言っていた小説のことだ。現実の先生で遊んだほうがいいって」

「……ああ、それですか」

「すこい怖くて面白い話だな。表面ではいい先生のふりをして、裏では次々と殺人を犯していく。『高度に発達した教育は暴力と区別できない』とかいう台詞も風刺が効いていた。ただ、これの主人公と比較されて騒がれたんだと知って、ちょっとショックだ――」

「――国立先生」

 彼女は、待ちきれないといった顔で、言葉を遮ってくる。

「前置きはいいです。話があるんなら、早くしてください」

「うーん……、急かされると、話を切り出しにくいというか、何というか……」

「そうやってすっとぼけて、私を追い詰めて、ここであたふたしているのを観察したいんですよね? 分かっていますよ」

「おいおい、それは誤解だぞ。私にそんなつもりはまったくない」

「先生は嘘だけじゃなくて冗談も得意でしたね」

「……困ったな」

 私が反応しかねていると、彼女はいきなりジャケットの左袖を握ってきた。

「ふざけないでください! もう全部、分かっているんですから!!」

 顔を近づけてきて、言葉を投げつけてくる。

「ふざけてなんか――」

「――気分がいいんですよね? 私の居場所がなくなっていって、復讐できたって思っているんですよね?」

「とにかく、私の話を――」

「――私のせいで学校を追い出されて、先生としていられなくなった。居場所がなくなった。だから私に仕返しですか? 自分だけは安全圏にいて、苦しむ私を見るために、ほんと、すごいこと考えますよね。復職して、1組を味方につけて、お母さんを抱き込んで、学校全体を盾にして、そうやって私だけを孤立させて、やられたことをやり返す。国立先生は、私なんかよりも意地悪な性格をしているって、はっきり分かりました」

「……そう思われているんだな、私は」

「花本先生のことも根に持っているはずですよね? あんなに両想いだったのに、私のせいで関係が悪くなって、その挙句に寿退社しちゃったんですから。悔しいですよね? 美人で優しくて仕事もできて、文句なんかつけられない人との縁を、切られたんですから」

「……アルコールがな、花本先生は険しいハードルだったんだが」

「気持ち悪いんですよ。善人面をして、私は無関係ですって、言ってるんですから。そんなことしたって分かります。先生は、本当に性根の曲がった性格をしていて、陰で私が苦しむ姿を楽しんでいるんです。ほんと、腹が立ちます」

 彼女は肩で息をしていた。

 濁りのない瞳を向けてくる。私を心から憎んでいるのが、痛いほど分かるものだった。ジャケットの袖を握り締めたまま離そうとしない。

「違う、とにかくそうじゃない。ちょっと落ち着いてくれ」

 袖口を引っ張られるに任せ、苦笑いを浮かべた。

 それでも彼女は、私を凝視し続ける。吹き上がってくる風が、フェンスを揺らしながら、彼女にぶつかっているのに、髪をかき分けることも、目を細めることもしない。

「月島、自動改札口だ」

「は、自動、何?」

「自動改札口の話、お見舞いに来てくれたときしたの、覚えているか? なぜ私が先生と生徒という関係にこだわるのか。そんなことをして、一体、何を教えようとしているのかって」

「……言いましたよ、それって、関係あるんですか」

「あれな、けっこう痛いところを突かれたんだ。数学なんて特にそうじゃないか。算数のレベルなら誰だって、何の役に立つのか理解できるけれど、やれ二次関数だ、幾何だ、微積だ、虚数だ、行列だって言い始めると、途端に意味が分からなくなる」

「…………話が回りくどいです」

「あの頃の私は、先生と生徒っていう関係があって、それをきっちり守って、先人の知恵を、お前たちに授けることが一番大事だと思っていた。盲信していたと言っていい。それがお前の、あの質問ですっかり信じられなくなった。まさに自動改札口が壊れてしまった」

「だから、その腹いせですよね?」

「違う違う、そうじゃない」

 やっぱり私は説明が下手くそだな、と愚痴がこぼれる。

「おかげで見えなかったものが見えるようになったんだ。お前たち一人ひとりの顔が――まだ復職して間もないけれど――前よりもよく分かる。ずっとかかっていた霞が晴れた感じだ。もちろん学校というのは先生と生徒という関係が前提になっていて、当然だと思う。けど同時に、赤の他人同士でもあって、お互いに考え方や感じ方もばらばらだ。私が生徒を導くことがあってもいいし、お前たちが先生を助けることだってあっていい。そう思えるようになったんだ」

「で、一緒になって、役に立たない数学を教えるって、いうことですか?」

「それは……すまん。正直に言えば、今も分からないんだ。学校で教えていることが、お前たちの人生に役に立つのかどうか。私は大切だと感じているんだが……」

「馬鹿じゃないですか。分からないって」

「そうだな、馬鹿だな。だけど、自分が意味があるって信じていることを教えていくしかない気がする。たぶん、ずっと悩みながらためらいながら、になるけれど」

「悩むくらいなら止めればいいじゃないですか。理解できません」

「けどな、それがまた意外と楽しいんだ。こんなに役に立たないって言われるのに。だって――」

 私は、少しだけ間を置いた。

「――大好きな月島と一緒にいられるからな」

 袖を握る力が、一瞬緩んだ。彼女の表情から、時間が奪われる。

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