9.2

「ちはや先生、もう分からん」

 小学校低学年くらいの小さな女の子が、側に立っている男性に向けて、甘えた愚痴をはく。

 とある一室。

 一人の男性と女の子が、問題集をめぐって格闘していた。

 秋の日差しが差し込む、雑居ビルの三階。『古見セミナー学習塾』という看板の掲げられた一隅にあった。

「こんなん、何のために勉強するんか。できなくても生きていける」

「そうだな。私もそうだと思うぞ」

 えっ、と女の子は驚きを吐き出した。

 自分の愚痴が受け入れられるとは思っていなかった。わがままを言うな、生意気な態度をとるな。そう説得されると予想していたからだ。

「実はな、私も何のために教えているのか、よく分からないんだ」

「ちはや先生は先生でしょ。どうしてそんなこと言うん?」

「これはみんなには内緒だけど、私は先生じゃないんだ。ここで勉強を教えてはいるけれど、ちっとも偉くないし、立派でもないんだよ」

 しぃーっ、と人差し指をたてて、唇に添える。

「じゃ、なんで先生なん? どして勉強教えるん?」

「どうしてかな」

「分からないの? 先生なのに、おかしいよ」

「そうだね、その通りだね」

 女の子の質問を受けて、彼はゆっくりと返事をする。

「私は先生じゃないからね、とても大事なことを教えられるんだ。こんな大事なこと、学校やお母さんは教えてくれない。だから内緒に、誰にもばれないように、こーっそりと教えているんだよ」

「分からんし! ちはや先生の大事なこと、ぜんぜん分からん!」

 女の子は問題集をわしづかみにして、床に投げ捨てた。

 男性は笑顔のままそれを拾いあげ、机に戻す。

「今は分からないけど、いつかきっと分かるときがくる」

「そんなん待てん」

 机に戻ってきた問題集を、女の子はじっと見つめている。

「ちょっとだけでいい。今だけ、私のことを信じてくれないかな?」

「なんで」

「約束する。君が大きくなったら、ここで勉強したことが大事だって分かるようになる」

「今、分からせて、今」

「今かぁ、それは無理だね」

「そんなら私、もう勉強せん」

 ついに女の子は問題集と閉じて、机に突っ伏してしまった。男性から盛大なため息がこぼれてくる。

「おごって」

 すると突然、顔を横にくるりとひねって、彼女は彼を睨みつけた。

「ん?」

「レストランのご飯、食べたい。食べさせてくれたら勉強する」

「そうきたか。君はやり手だな」

「じゃないと、もうここにも来ん。勉強も絶対せん」

「……仕方ないなぁ」

 にぃ、と女の子は笑顔になった。

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