3.5
放課後の体育館。
練習メニューをすべて消化し、道具の片づけを終えていた。
今週末に予定している他校との練習試合。それに関する打ち合わせも行った。ミーティングの時間を利用して、作成した遠征心得のプリントを配布し、その解説を行う。ユニフォームや宿泊用の寝巻と下着、予備のタオル、常備薬や酔い止め、保険証のコピー、ビニール袋や筆記用具などを持参するように伝え、保護者に読んでもらうための遠征心得プリントを、部員一人ひとりに手渡す。
「佐々岡、ちょっといいか」
ぞろぞろと体育館から出ていく部員たち。そこに紛れていた佐々岡に声をかける。
「ちょっと話があるんだが」
「はい」
佐々岡は足を止めた。
柴田と武田が、通りなしに彼の背中を叩く。「先に行くわ」と体育館を出ていった。
「今日は調子がよさそうだったな。しばらく休み休みだったから気になっていたんだが」
「インハイが近いです。だからです」
「そのやる気が部員を感化しているから、今の調子で続けてくれると嬉しい」
「はい」
周囲に人の気配がないことを確認する。
「それで、バレーとは違うことで、佐々岡に確認したいことがあるのだが」
佐々岡の顔に、一瞬、緊張が走る。
「いや、そんな警戒しないでくれ。生徒指導の一環で、聞いておくだけだ」
「……はい」
「この間屋上にいたのは、理由があるのか? 普段、行くような場所じゃないだろう」
「……気分転換です」
「月島と何かあったのか?」
佐々岡は両手に握り拳を作って、直立したまま動かない。
まさか売春をしたのかと聞くこともできず、しばらくその様子を見守る。
「インハイが終わるまでって、思ってたんですけど……」
力なく両拳を解いた佐々岡は、口を開いた。
「実は自分、月島のことが好きだったんです。一年の二学期くらいから気になってて」
「そう、だったのか」
私はズボンのポケットに入れていた体育館の鍵を握り締めた。手のひらに鍵の凹凸が食い込んでくる。
「でも、今は違ってて。バレーに集中したいと考えています。月島のことは、今は考えたくないっていうか」
「嫌いになってしまった、ということか?」
「……分かりません。でももう、そんなつもりはないです」
佐々岡は頭を左右にふった。
その様子を前にして、私はどこかホッとしている自分がいることに気づいた。
「お前と月島は、けっこうお似合いなような気がするが、ちゃんと告白とかしたのか?」
「……してない、です。俺はそんな風に見られてないですから」
「そんなことはないだろう」
先週末に交わした、月島との会話を思い出す。
彼女は、自分には好きな人がいると教えた。そしてそれが佐々岡であると。
「屋上で月島と話をしたんです。先生とすれ違った、あのとき」
「ああ」
「言いたくないですけど、ずっと月島のこと見てて。そしたらあの日、あの日に限って、あいつ屋上に歩いていったんです。これまでそんなこと、一度もなかったのに」
佐々岡の話が本当だとすると、彼女が売春をしているという噂は、やはり嘘になる。あの日に限ってということは、普段はそうしていないことの裏返しだ。
「なんか変だなって思って、後ろをついていきました。屋上に行ったら、そこで鉢合わせになって、俺、何しているんだって聞いたんです」
手のひらに、ぬめりとした汗が湧き出てくる。
「そしたらあいつ、こう言いました。なんで俺がここにいるんだって。待ってるのは俺じゃないからって」
「待ってるのは俺じゃない?」
「せっかくの苦労を台なしにしないで欲しいから、帰ってくれって」
「せっかくの苦労……」
違和感のある言葉を、繰り返し口にする。
つまり月島が屋上に行ったのは、佐々岡以外の人間との待ち合わせ、ということになる。そしてそれは何らかの苦労を伴っていたものだと。
「月島は、なぜ屋上に行ったんだ? 誰を待っていたんだ?」
「……それは、教えてくれませんでした。でも……」
佐々岡の視線に、試合のときのような鋭い雰囲気が宿ってくる。
「そのあとすぐに国立先生が来たのに、月島に追い返されなかったから。だから俺、先生と二人だけで話をしたかったんじゃないかって、そう考えました。どうやって国立先生を屋上に呼んだのかは分からないですけど。それに」
体育館の鍵を握る手から、すでに感覚が失われていた。
すっかり手のひらに馴染み、まるで融けてしまったかのようだった。
「あいつ、分かりにくいですけど、最近、すごい嬉しそうにしてます。屋上に行ったあとから。だから月島は、先生のことが好きなんだって。俺は見えてすらいないって」
淡々と語る佐々岡に、返す言葉を思いつかない。
もし佐々岡の言う通りだとすれば、月島の売春話は、私を呼び出すための方便だったという可能性が高い。その事実関係を確認するために、私を、屋上に向かわせればいいのだから。
月島は、大人しい生徒で、いじめられている様子もないし、過去にそういった形跡もない。よくよく考えてもみれば、そんな噂を立てられる理由がない。
――だとすれば。
この話には協力者がいる。月島が噂を立てられていると、この私にだけ、周辺を経由しない方法で、伝えなければいけないからだ。そしてそれを行ったのは――
「先生、先生はどうなんっすか?」
佐々岡の呼びかけが、思考を破る。
「ほんとのことを知りたいです。先生は月島のことが好きだったりするんすか?」
大柄な身体で威圧するように、佐々岡は迫ってきた。
――何を言ってるんだ。月島は高校生だぞ。
すぐにそう答えようとしたのに、口が動かない。ツーンとした耳鳴りの音が聞こえてくる。
「ない、それはない。先生は大人で、月島は子どもだ。大人と子どもが恋愛関係になることは、ない」
「それって本当に信じてい――すみません、何でもないです」
もうバレーに集中するって決めましたから。佐々岡はそうこぼした。
「国立先生に、そのことを聞きたかったんです。でもやっぱりいいです。こういうの、気にしたら負けっすから」
「そうか」
「ありがとうございました」
佐々岡は一礼すると、体育館を出ていった。
私はその場に留まり、腕を組みつつ、額に手を当てた。そこから深い襞の感触が伝わってくる。
「佐々岡が逃げるはずだ、こんな顔をしていたんだな」
皺を伸ばそうとしたが、しばらく顔のかたちが変わることはなかった。
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