7.5
「お役に立つかどうか分かりませんが」
千早先生はそう前置きすると、月島との関係について、ぽつりぽつりと語り出した。
月島が入学したときのことは、まったくといっていいほど覚えていないという。担任も違い、部活動でも会わないため、名前を聞いたことがあるという程度の認識でいたらしい。
「四月中旬、ようやく2組の子らの特徴がつかめたときでした」
いきなり彼女から呼び出されて、相談されたのだという。佐々岡という男子バレー部の生徒が好きなのだが、どうやってアピールしていいか分からない、助言をして欲しい、と。自分はそういうのは苦手だからと最初は断っていたが、あまりにも何度も話を持ちかけられるため、つい、相談に乗ってしまったそうだ。それから週末も会うようになり、プライベートでも交流するようになる。
「おかしいと思いました。佐々岡くんの相談なのに、いつも話題が変わっていきますから。ただ個人的に近しい女性がいる、ということに心躍ったのは嘘ではありません」
千早先生の背中は、さらに丸くなった。
「そして月島さんは、自宅に来るようになりました。料理を作って、おしゃべりをして。そんなことを繰り返すようになって、つい、魔が差して」
彼女の手を握ってしまった。
千早先生の瞳は、後悔一色に染まっていた。
「それから急に距離をとるようになって。お互いに顔を合わせても、挨拶をするだけの関係に戻りました――」
「――あ、あの、千早先生」
「はい?」
「こういっては失礼ですが、手を握る以上のことは、なかったのですか?」
「ありません。ただ、そういう意図を持って、手を握ろうとしましたから」
「そうですか……」
からんからん、とファミリーレストランのドアベルが、来客のあることを伝える。
家族連れだろうか。小さな子どもの声と野太い女性の声が騒々しい。すぐ横の席に座ってきた。
「これまで女性関係はまるで縁がなくて、気も強くないほうですから。あの失敗で、ひどい罪悪感に苛まれるようになりました。あんなことをして教師失格ではないか。彼女が言いふらしたら、私の人生は終わってしまう。でも誰にも相談なんかできない。毎日のように悩んでは、悶々とするだけでした」
「……」
千早先生は淡々と語る。お気持ちは分かりますと言おうとしたが、言葉にならなかった。
「我慢できなくなり、つい多崎先生に話をしてしまいました」
「なるほど……」
「ですが詳しいことは何も言えませんでした。とにかく怖くて。結局、私は学校を辞めました」
「そうでしたか……」
千早先生のハンバーグは、ほぼ手つかずのまま残されている。
「その、国立先生はどういった状況なのですか? 私と同じように、月島さんから……」
それから私も、自分が経験したことを、包み隠さず説明した。
状況がもう後戻りできない段階にあることを知り、千早先生は険しい顔を浮かべる。
「私は予行演習、です、か」
ゆっくりと鼻から息を吐き出す。
「気が滅入りますね。利用されたのかと思うと。失礼ですが、月島さんにも国立先生にも、好き勝手にしてくれという感想を抱いています。大変な状況であることはお察ししますが」
「いえ……」
「月島さんが、最初から先生を狙っていたのであれば、その関係は続くでしょう。本気になって先生が否定しない限り」
「はい……」
「とはいえ、先生と生徒という関係は、世間体に抵触します。国立先生が先生を辞められるか、月島さんが生徒を辞めるかしないと、解決できないようにも思いました。いずれにしても、練習台と本番では、意味合いが違ってくるでしょう」
さきほどの女性が、苛々しながら子どもを叱りつけている。
子どもは生返事をしながら、店内を走り回っていた。
「で、先生ご自身はどうされたいのですか?」
「え、私、ですか?」
まったく予想していなかった問いに、驚いてしまう。
「こうしてわざわざ足を運んでくださったのは、どうにかして現状を変えたい、自分なりの答えを見つけたい。そうお考えだからでは?」
正直、そこまで考えてはいなかった。
ここに来たのは、千早先生に好奇心を抱いたからだ。それが下卑たものであるのは分かっているし、あわよくば元気づけてもらおうという下心があったことも否定できない。
「月島さんとどうなりたいのか。私みたいに離れたいのか。異性として結ばれたいのか。あるいは元の関係に戻りたいのか。それとも仕返ししたいのか。先生のご意思が、大切ではないでしょうか」
「たしかに……」
「もちろん彼女の行為は許されることではないでしょう。それを道徳的に非難したい気持ちだっておありだと思います。けれど起きてしまったことは変えられない。これからどうするか。月並みな表現ですが、過去よりも未来、それを変える現在は国立先生の手のなかにあります」
「…………」
「ここで答える必要はありません。私に言うことでもありませんから」
「すみません……」
再び、店員を呼び寄せる呼び鈴が鳴った。
隣の家族連れ客は、デザートを注文している。
「私は、先生を辞めてよかったと思います。ここで塾生に教えるようになって、たくさんのことが見えてきました」
千早先生は、わずかに胸を張り、猫背を伸ばす。
「学校というのは変な場所です。勉強だけではなく生徒たちの私生活まで踏み込んでいく。なのにお互いを、先生と生徒という型にはめて距離をとろうとする。赤の他人同士が、個と集団という関係で、大過なく数年間を送るために必要な工夫なのでしょう。でも人間関係は多様です。先生と生徒という関係だけではありません。いろんな関係から、人間は学んでいきます」
意外に思われるかもしれませんが、と先生は続ける。
「ここでは勉強をあまり教えません。学校にいられなかったり、勉強についていけなかったり、保護者との関係がぎくしゃくしていたりする子らの、相談相手になることがほとんどです。児童相談所に連れていくこともあります。それにごく少数いる、勉強のできる子だって一筋縄ではいきません。難しい問題が解けなかったりすると、役に立たない、面白くない、とすぐに匙を投げてしまいます」
両手を太ももにおいて、少しだけお辞儀するように、身体を傾けた。
「まったくうまくいきません。毎日、手を焼いて、迷惑をかけられて。塾生たちから懐かれたかと思えば、急に嫌われたり。いつも疲弊しきって家に帰ります」
前傾姿勢の千早先生は、どこか笑っているように見える。
「けど、そうやっているのが楽しいんですね。彼らが間近にいる。私も一生懸命取り組む。いずれ彼らがここを巣立って、私が教えたことなんかすっかり忘れてしまっても、そうした時間をすごしたいって思うんです。それは先生と生徒という関係にばっかり気をとられていた教員時代には、気づけなかったことです」
「…………」
からんからん、と再びレストランのドアベルが鳴った。
子どもと女性の賑やかな声が、ゆっくりと遠のいていく。
「人はみな弱い。傍若無人で、高慢不遜で、厚顔無恥で、居丈高に見えても、弱点を抱えています。それらはみんな皮なんです。弱い中身を見られないように、性格や言動といったもので保護している。弱い部分を否定しようと躍起になって、ますます皮を分厚くしてしまう。そういった性格は、闘ってきたことの証なんじゃないか。国立先生は、そうは思いませんか?」
「いえ、正直、あまり考えたことが……」
「月島さんも、ああするしかなかったんだと思います。許してやれ、とまでは言いませんが」
「…………」
「変な話をしてしまいましたね」
千早先生は、伝票を手にとった。
「あ、代金は私が――」
「――いいですよ。わざわざ来てくださったんですから」
そして立ち上がって、レジへと歩き始める。
「あの、最後に」
私は、思わず声をかけてしまう。
千早先生は「はい?」と、身体の向きを変えてきた。
「どうか笑わないで聞いて欲しいんですが、もしかして先生はずっと警告していませんでしたか? 月島に近づかないようにって」
「警告? 私がですか?」
「その、ずっと同じ夢を見ていたんです。そこには千早先生がいらっしゃって、月島と関わるなって助言して、すぐに消えていくっていう」
「……不思議なこともあるもんですね」
千早先生は柔和な顔をほころばせる。「でもそれは私じゃありませんよ」と断言した。
「どうして、ですか……」
「だって好き勝手にしてくれ、というのが私の本音ですから」
千早先生は子どものように笑い、「では」とレストランをあとにした。
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