9.4

「ちはや先生、ごちそーさまー」

 女の子は満足げな表情で、両手を合わせる。

 千早黒樹と彼女は、塾のすぐ近くにあるファミリーレストランで、昼食をとっていた。彼女のご両親にはすでに事情説明の電話を入れてある。迎えにくる時間を、少し遅らせてもらうようにお願いしてあった。

「先生、おいしかったです。また食べさせてください」

 口にタルタルソースをつけながら、ちゃっかり次回の予約をする。

「君は、なかなか一筋縄ではいかないね」

 こっそり財布の中身を確認し、「あのとき見栄張るんじゃなかったな」とため息をこぼす。

「これで満足できたかい?」

「はーい」

「じゃ、塾に戻ろうか」

「いやー」

「こらこら。私と約束しただろう? ご飯食べたら勉強するって」

「ねむたいー」

「先生との約束を破るのかい? 君はそんなひどい子だったのかな?」

「おやすみー」

 女の子は、レストランのソファ席で横になる。はじめは演技かと思っていたが、彼女からすぐに寝息がこぼれてきた。

「今日のえづけ作戦は失敗だったな」

 音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、千早黒樹はレジで会計をすませてきた。そのまま静かに、席に戻ると

「先生、どこ行っとったん」

 女の子が寝そべりながら視線を向けてきた。

「おいて帰るつもりなんじゃ。私がわがまま言うけん」

「お金を払ってきただけだよ。まあ、たしかにわがままな子だったけど」

「帰る」

 彼女は、ひょこんと立ち上がると、出口へ向かい始めた。

「帰るって」

 ころころと態度の変わる女の子に、千早はややげんなりしていた。先陣を切る彼女のあとを、ゆっくりとついていく。ドアベルを鳴らしながらレストランを出ると、彼女は来た道を戻り始めた。

「ん、帰るって、そっちは家じゃないよ」

「じゅくに行く。勉強するよ。約束したもん」

「おや、約束を守ってくれるのかな?」

「先生は手がかかるけん。合わせてあげる」

「私に合わせてくれているのかい?」

 彼女は返事をせずに、つかつかと塾のある雑居ビルに入っていってしまった。

「これは、何が、功を奏したのかな」

 首を傾げながら、千早黒樹も、ビルへと入っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る