8.2
――何なの、あれ。
放課後。下駄箱に向かって歩きながら、月島霧子は憤りを抱えていた。
国立一弥が復職して、もう数日が経過している。
どうせ失敗する。まだまだ彼を疑っている生徒もいるはずだ。そう高をくくっていた彼女だったが、その目算は、ものの見事に裏切られていた。1組の生徒は、あっという間に彼の存在を受け入れ、今では何事もなかったかのように学校生活を送っている。教員もまた、彼のことでトラブルを起こすようなこともなかった。これまで自分の手中にあると思っていたのに、いつの間にかいなくなっている。そのことが彼女を不安にさせ、苛立たせていた。
今さら、文句を言うにしても、誰に言っていいのか分からない。本人が胸に触ったことを認めてしまったのだ。それが故意か偶然かで争っても、不毛な水かけ論になってしまう。あとは当人を問い詰めるしかない。そう考えた彼女は、国立一弥の自宅に押しかけようとしていた。
下駄箱に到着し、上履きを収める。そこからスニーカーを取り出して履くと、「月ちゃん」と背後から呼び止める声があった。
「ねえ、月ちゃん」
振り向くと、胸元で両手を握り、不安そうにしている門田杏が立っていた。
「帰っちゃうの」
「うん。用事ができたから」
「それって、国立先生のところに行くってこと……? 先生が復職したから、その話をしに行くんだよね……?」
月島霧子は答えない。
すぐに踵を返して、学校から出ようとする。
「ねえ待って月ちゃん!」
さらに大きな声で、動きを止められる。
「何?」
「あのね、もう、止めたほうがいいと思うんだ……」
「止めるって、何を止めるの?」
「国立先生はいい先生だし、ああやって復職してくて、私は嬉しかったよ……。それをまた、月ちゃん、それって、よくないよ……」
「なぜ?」
「だって、月ちゃんが悪いってことになったら、今度は月ちゃんが……」
「そう思うのなら、門田さんが、私を止めたらいいじゃない」
月島は色のない視線で、彼女を射抜いた。
門田は自分を止めるようなことはない。どう口で言おうとも、行動は伴わない。そう月島は確信していた。
「……」
門田は、手を前に伸ばそうとまごついている。
――やっぱり。何もできない。
その様子を、くだらないものを見るような目で、月島は眺めていた。
「門田さん、私行くから」
呼び止められることはない。彼女は一歩を踏み出す。門田から「あっ」という声がこぼれるばかりで、やはり何もされなかった。
「待てよ」
だが、何者かが、彼女の手首を握ってくる。
分厚い感触と、野太い声。その力強い手応えは、門田のものではない。驚いて、三度振り返ると、そこにはジャージに着替える前の、佐々岡信二の姿があった。
「門田に謝っていけよ。さっきの、まじで感じ悪いぞ」
「なんで佐々岡くんが邪魔するの? 関係ないじゃない」
「ああ、お前がどうなろうと関係ねえよ。けどな、お前のせいで周りが迷惑すんのは、困るんだよ」
月島は、握られた手首を思いっきり振り払った。
佐々岡は、払われた手を気にもとめず、月島を険しい表情で見ている。
「国立先生に迷惑をかけるな」
「迷惑をかけたらどうだっていうの? 私を許さない、だったっけ?」
「そうだ」
「前は何もできなかったくせに。どうするの? 私をここに縛りつける?」
大仰に両手を広げて、月島は挑発した態度を見せつける。それを佐々岡はじっと見つめていたが、すぐに険しい表情を崩した。
「可哀想な奴だな」
そして物悲しそうに眉を開く。
「一年のときは全然気づかなかったけど、考えてみれば、お前、ずっと一人だったもんな」
「何それ」
月島の頬に、皺が刻まれる。
「それって、やり返してるつもりなの?」
「お前は、誰にも心を開いてないんだ。こんなに門田が心配してくれているのに、ちっともそれに気づいてない。一人が寂しいからって、みんなを逆恨みばっかりして。先生ばっかり追いかけて。だから可哀想な奴だって、俺は言ってんだよ」
「ありがとう。おかげで気づけたから。じゃあ、もう行っていい?」
「国立先生の気遣いが分からないのか――」
「――国立先生が、何を気遣ったっていうの」
平静を保っていた月島が、食いつくように問い返した。
その変貌ぶりに門田はびっくりしたが、佐々岡は態度を崩さない。
「あのまんま先生が、学校を休み続けて、辞めちまったら、どうなってたと思うんだ」
「新しい先生が来るんじゃない? 代わりの」
「お前のことを気にしてくれる人がいなくなる。そしたら月島は、また一人だ。そんでまた寂しさ紛れに、変なことをする」
「なんで佐々岡くんに、そこまで言われないといけないわけ?」
「自分の気持ちも分からないんだな。お前みたいな哀れな奴、見たことねえよ」
「あっそ」
月島は、小走りで高校を出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます