5.9

「私のこと、襲いたくなりましたか?」

 月島は、馬乗りの状態をめようとしない。私の顔を見下ろしながら微笑むばかり。

「もう悪ふざけはすんだ」

「覚えていますよね、屋上で話したこと。先生にはサービスするって」

「そんなことを言っても、私の態度は変わらないぞ」

「あれって嘘じゃないんです。噂話はでっちあげだけど、先生がその気になってくれたら、いつでもあげようって思っていました」

「……悪い冗談だ」

「冗談でもありません。先生は知らないかもしれませんが、女の子にだって性欲はあるんです。好きな人が近くにいたら、それだけでお腹が締めつけられちゃうから。この気持ち、伝わっていますか?」

 生唾を呑みこむ私を見ながら、月島は蠱惑的に笑った。

 その頬は赤みがかっていて、呼吸は荒い。

「先生と結ばれたくて、今日はここに来たんです。今なら抵抗できないから」

「化けの皮を剥がすため、か」

「さあ? どっちでもいいですよね、そんなこと。もっと大事なことがあるんですから」

 私は、視線で威嚇をするが、彼女の微笑みに陰りは生じない。

「月島、私は先生で、お前は生徒だ。先生は生徒を教え、生徒は先生から学ぶ。そうすることが私の生き甲斐で使命だ」

「知ってます。大人は子どもに手を出さないっていう話ですね」

「そうだ――」

「――でも先生。私を抱きたいって思ったはずですよ?」

「……そんなこと思うはずがない」

「私、ずっと分からなかったんです。どうして国立先生は子ども扱いするのか。あんなにいやらしい目で見てくるのに、職員室にお泊まりしてくれなかったのは、なぜだろうって。でも最近ようやく分かりました」

 にんまりと、歯を隠しながら、月島は笑う。

「実は、大人だと思っているんです。私が大人だから、つい一線を越えたくなる。でもそうなったら学校にいられない。だから合理化するために、私を子どもだということにして、自分は大人という安全圏に逃げているんですよね」

「そ、んなはずが、ないだろう」

 顎の奥に緊張が走り、不恰好に奥歯同士が噛み合わさった。

「だったらどうして動揺するんですか? 子どもが乗っかっているだけですよ?」

「……いい加減にしないと、怒るぞ」

「いいですよ。怒ってください。どうせ嘘はつくろえませんから」

 月島は、両手をお腹のうえに乗せ、体重をかけてきた。

 じわりと体重をかけながら、楽しそうに前後に揺れる。木馬に乗って遊んでいる子どもの仕草を連想させる。

 このままでは月島に参ってしまう。なのに視線も身体も、どこにも逃げられない。

「先生? 今、すごく我慢していますよね。私のこと考えないようにって」

「…………」

「すごい顔してますよ? 眉間に皺が寄ってます」

 しまった、という後悔が、私の手をとっさに動かす。慌てて顔をなでてみるが、そこに皺は刻まれていない。

「やっぱり我慢していたんだ。先生ってお茶目ですね」

 私は抗議の意味で、口をへの字に曲げる。

「どうして我慢するんですか? 先生と生徒を続けることが、そんなに大事なんですか?」

「……」

「先生だって人間です。生徒だって同じです。状況が状況なら間違えてもいいんです」

「……そういうわけにはいかない」

「どうしてですか?」

「……教えなければいけないことがあるからだ」

「そうですか」

 月島は両手を離し、胸の前でそれを組み合わせる。

「少し、興味があります。そんなに我慢して、演技を続けて、何を教えたいんですか?」

 そして私を見下ろしたまま、口を閉じた。私から話すのを待つつもりらしい。

 待っていても月島にいいようにされるだけ。私から話をすれば、こちらのペースに引き込みやすくなる。私にとっては好都合の提案だった。

「生きていく力だ」

「生きていく力?」

「そうだ。たしかに学校で学んでいることは、直接役に立たないことばかりかもしれない。だが、そうやって見聞を広めて、自分の知らない世界を知って、自分の至らなさを顧みることが、社会に出てから力になるんだ」

「どんな風に力になるんですか?」

「自分の知らない他人、文化、風習、環境。そういったものに遭遇しても、共に生きていくことができる。自分が知っている世界だけではない、という経験が、謙虚さにつながるんだ。その予行演習として、広い世界を知る大人が、子どもを導かなければならない」

「変わった考え方ですね」

 月島は手のひらを口に当てる。彼女は笑いを堪えていた。

「だって先生が言ってるみたいな人、どこにもいませんよ」

「それはお前が、まだ――」「――子どもだから?」

「……そうだ」

 彼女の瞳から、好奇心の色が失せていく。

「子どもでも分かりますよ。先生こそ社会をよく見てください。自分の知っている世界しかなくて、他人のことが考えられない大人って、たくさんいるじゃないですか。世間で声が大きいのは、わがままな大人ばかりです」

「そんなことはない」

「それに世界なんて、狭いほうがいいに決まっています」

 月島の視線は冷たい。そこには侮蔑の意図が込められてる。

「欲しい服だって、娯楽作品だって、結婚相手あって、病気のときの薬だって、将来の進路だって、子育ての仕方だって、全部が全部、自分で決めることはありません。ネットで検索したり人に聞けば、相応しいものをお薦めしてくれますから。自分で考えるなんて面倒なことしなくたって、生きていけます」

 そのほうが失敗しませんし、世界が広かったら、考えるのが大変じゃないですか。

 月島はそう言い切る。

「駅の自動改札口と一緒ですよ。流れに逆らったり、わざわざ手動にしたりしなければ、スムーズです」

 笑いながらしゃべっているはずなのに、なぜか苦しそうに見えた。

「スムーズなだけでは、いつか駄目になるときが来るんだ」

「本当ですか? 本当にそんなときが来るんですか?」

「……本当だ」

「じゃあ、その駄目になったときどうすればいいか、さっさと教えればいいじゃないですか。なんでわざわざ、役に立たない知識を教えようとするんですか?」

「……それは、具体的には分からないからだ」

「具体的には分からないのに、駄目になるって、どうして分かるんですか?」

「それは……」

 なぜだろう。

 どうして私は、まだ知らない躓きが、将来訪れると断言して、それに向けた教育が必要だと言えるのだろうか。

「でも、そうやって振る舞うのが先生のお仕事ですからね。それでお給料をもらっているんだから仕方ありません。ごめんなさい、意地悪なことを聞きました」

 月島は、おもむろにシャツのボタンを外し始める。

 内側からの圧力を解放するように、それは勢いよくとれた。わずかな下着に覆われた、ふくよかな双丘が姿を見せる。

「もう難しい話は止めませんか? もっと楽しいことがしたいです」

「……お前が、話をふってきたんだろうが」

「怒らないでください。ちゃんと謝ったじゃないですか」

 月島は、私の手をとり、胸元へと引っ張っていった。

 触れる、指先。膨らみに、沈む。

「ば、馬鹿! 止めるんだ!」

 胸ごと押しつぶすように、私は月島を弾き飛ばした。彼女は、布団に尻餅をついてしまう。自分でも信じられないほどの力を発揮できたが、すぐに強い虚脱感に襲われた。

 肩で息をしながら、彼女を見る。

 そこには、あの、無表情で感情の読めない顔があった。

「私、先生のそんな顔が見たかったんです」

 にやぁ。

 月島は笑顔を浮かべた。

「今の先生、子どもみたい」

 彼女はシャツのボタンを戻しながら、ゆっくりと立ち上がる。

「また来ますね」

 そして月島は、部屋を出ていった。

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