2.2

 部活指導を終え、いつものように体育館から職員室へと戻ると、門田が部屋の入口で待っていた。両手でカバンを持ち、視線を上履きに落としている。

「門田、待ち伏せされても自宅には案内しないぞ?」

「あ、国立せんせ……」

 ちょっと冗談めかして声をかけたが、門田の反応は鈍い。

「月島は、一緒じゃないんだな」

 周囲を見てみるが、そこには門田しかいない。

「月ちゃんは帰るって。だから私だけ」

 門田は笑顔になるが、精彩を欠いている。これまで門田と月島が別々にいるようなことはなかったと記憶している。中学時代からの友人だと聞いているし、部活だって一緒だ。月島と喧嘩でもしたのだろうか。それとも、

「悩みごとか? 月島には言えないような」

 彼女は息を呑んだ。そして無言で頷く。

「分かった。話をしよう。少し待っててくれ」

 そう言い残して、私は職員室に入る。片づけの準備と、先生方への挨拶をすませ、「待たせた」と外に出ながら、彼女に声をかけた。

「門田の家は、津吉備つきび町だったな。車で送ろう」

「あ、はい」

 私たちはそのまま、校庭裏にある職員駐車場へと向かった。職員室だと他の先生の目があるし、学校内だと生徒が聞き耳を立てているかもしれない。空き教室も悪くはないが、誰にも聞かれない場所なら車中が一番確実だ。

 車に到着し、門田を助手席に乗せる。エンジンをかけて路上へと出ると、津吉備町に向かってハンドルを切った。

 しばらく黙ってみるが、門田のほうから口を開く気配はない。誰にも聞かれていないとはいえ、やはり話しにくいのだろう。車の走行音が流れるばかりだった。

 五分ほど運転すると、津吉備町への案内看板を発見する。十字路で減速し、右ウインカーを点滅させた。

「こっちの道だったな」

「はい」

 そのまま右に曲がり、住宅街へと進む。そうして一分も経たないうちに『門田』という表札のある家に到着した。

「ついたぞ」

「はい……」

「ここなら誰も聞いていない」

 門田が口火を切りやすいように、言葉を置いてみる。

 彼女は黙ったまま車から降りようとしない。快活で人を食ったような態度は鳴りをひそめ、カバンの柄を握ったり離したりしている。車はアイドリング状態のまま、ハザードランプを点滅させている。

「あのね、せんせ、私のことじゃなくて月ちゃんのことなんだけど」

 私は無言で頷き、車のエンジンを切った。サイドブレーキを引く。

「月ちゃんのことで、変な噂とか、聞いてたり、する……?」

「噂?」

 月島について、これといった話は聞いていない。むしろ問題行動を起こさない生徒として認識している。他の生徒たちが、月島について話題にするようなこともなかったはず。生徒指導主任として、多くの生徒と接してきたから間違いない。

「その、これね? 誰にも言わないで欲しいんだけど」

「先生方にも生徒にも、もちろん月島にも黙っておく」

「うん」

 彼女はカバンの柄を強く握り締めたまま、それを離そうとしない。

「月ちゃんって、こう大人っぽいっていうか、女の私から見ても、すごいっていうか……おっきいじゃない」

「おっきい?」

 門田の言わんとしていることが理解できず、おうむ返しにする。大人っぽいというが、そんな派手な身なりをしていただろうか。背丈だって門田と変わらない。

「もう! 国立せんせは男なんだから分かるでしょ! 月ちゃん、胸おっきいじゃんか! 仕草もなんか高校生っぽくないし!」

「そういうことか」

 門田のむくれた顔に笑ってしまう。月島の姿を思い出してみるが、大人っぽいというよりも大人しい。その一言に尽きる。胸の大きさについては記憶があやふやだ。

「そんなんだから結婚できないんだって。ほんとせんせは節穴なんだから」

「すまんすまん。で、その大人びた月島に、どんな噂があるんだ?」

 門田は顎を引き、口を一文字に閉じた。

 鼻からわずかに二酸化炭素を吐き出し、柔らかく口元を開く。

「月ちゃん、学校で身体を売ってるって、そういう話があるの」

「学校、身体、売る……?」

 門田の予想外の台詞を咀嚼そしゃくできなかった。ごろごろと剥き出しの単語が転がってしまう。

「ええと、誤解だったら訂正してくれ。つまり門田が言いたいのは、月島が売春行為をしていて、その場所が学校だっていうことか?」

 門田は返事をすることなく、軽く頷いた。あまりにも突拍子のない話に、思わず吹き出してしまう。すると彼女は、不服そうに頬を膨らませた。

「悪い。そんな馬鹿にしたつもりはないんだ。ただ、予想外の話だったから、つい」

「いいですよ、おかしければもっと笑っても!」

「いや、ほんとすまない。うちの学校に限って、しかもあの月島が売春というのが、想像できなかったんだ」

 苫田井高校は、さほど偏差値の高いところではない。関東の国公立大学に、毎年のように生徒を送り出すこともない。それでも生徒たちの素行はよく、県内では中堅どころの、落ち着いた学校として知られている。県の南部にある荒れがちな高校とは事情が異なる。

 もちろん、ここにだって事情のある生徒はいる。たとえば、話をしている門田の家庭は裕福ではない。教科書代等の諸経費について、何度かご両親と相談をさせてもらったりしている。月島だって母子家庭で育っており、平和な家庭環境だとは言い難い。

 だが門田は、真剣そのものといった表情のままだ。

「門田は、その噂話を信じていないが、月島が迷惑がっていて、それを気にしているということなのか?」

「う、ん、と……」

 歯切れが悪い。

「月ちゃんも、その話は知ってて。で、気にしていないっていうか……」

 私は黙って頷き、続きの言葉を待つ。

「否定、しなかったんだ。私、これでも月ちゃんの友達だと思っているから、トイレで二人っきりのときとか心配で聞いたよ? あんな話は月ちゃんがきれいだからって嫉妬してる、どっかの女子のせいだから、絶対。気にしなくていいよって。月ちゃんのこと疑ってないって」

「先生もその通りだと思う」

「でも月ちゃん、何にも言わなかったの。その噂話に迷惑しているとか、自分を信じて欲しいとか……ただ、笑ったの。ふふふって……だから私……」

「本当に売春しているんじゃないかと、つい疑ってしまった」

 門田が言いにくいことを、先んじて言葉にした。

 彼女が頷くことはなかったが、その態度は、月島の無実を信じるものではなかった。

 私はシートを倒して身体を預けた。そしてフロントガラスに映る、住宅街の風景に視線を動かす。門田もそれに合わせる。

「もし月ちゃんがそんなことしてたら、どうしよう……。止めなきゃって思うのに、本当かどうか分からないし……」

「門田は友達思いだな。先生はお前のことを見直している」

「昔から月ちゃんは、私を助けてくれたっていうか、大切な人だから」

「そうか」

 両手を後頭部に回して深呼吸をする。ズボンに挟まれていたシャツが、腕の動きによって引っ張りあげられた。

「先生の考えだが、月島がそんなことしているとは、どうしても思えないな。もし実話なら、噂どころではすまないだろうし」

「でも……」

「笑ったっていうのは、きっと嬉しかったからだと思うぞ。門田が心配してくれたんだ。思っていることを表に出さない子だから、微笑んだだけじゃないか」

「…………うん」

 門田の暗い顔は、明るくならない。

「だったら少し、先生に任せてはくれないか。ちゃんと調べてみる。もちろん月島には内緒にするし、門田から聞いたってことも言わないようにする」

「ほ、ほんとっ?」

 声に明かりが灯る。

「誰がそんな話を流したのかも突き止められれば、安心できるだろう?」

 それから私は、噂話の内容について、門田の説明を聞いた。どうやら屋上で「売買」が行われているらしい。予鈴が鳴るまでの時間。二万円を下限としているらしい。

 この情報だけで、もう嘘であることが分かる。

 もし定期的に、お昼休みに屋上で「営業」をすれば、いくら目立たない月島でも、その行動の理由を訝しむ生徒が出てくるだろう。しかも、やっていることは売春なのだ。先生方の目を盗むことだってできやしない。やはり誰かが悪意を込めて吹聴していると考えるのが妥当だろう。

 それでも門田は真剣に悩んでいるのだがら、ここは担任兼生徒指導主任として、力になってやりたいところだ。それに私としても、そんな噂をするような生徒がいたことに気づけなかったのも悔しいし、それを止められなかったのも残念だ。

「国立先生、よろしくお願いします」

 助手席の門田は、深々と頭を下げてきた。

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