4.2

「今日はありがとうございました」

 量販チェーン店で淹れられたコーヒーを口に含み、お礼を述べる。丸机の反対側には、花本先生が抹茶ラテを手にして座っていた。

 周囲には洋楽のBGMが流れ、コーヒーの香りと混ざり合いながら、来客者の談笑をコーディネートしている。店内は若い男女や家族連れ、ノートパソコンと睨み合っている大学生おぼしき人物で賑わう。

「こちらこそ」

 プラスチックの容器から伸びるストローから、彼女は口を離した。

 土曜日の夜。

 他校との練習試合への引率を終え、その日のうちに苫田井高校に帰ることができた。試合のほうは圧勝中の圧勝で、反省会も短くすんだ。そのまま部員たちを下校させ、私たちは丘花山駅周辺の飲み屋街へと向かい、二人だけのお疲れ会を開催した。

「国立先生の本気が見られなくて残念です」

「……遠征直後なので、体力的な限界が」

「今後の課題ですね、国立先生」

 花本先生はにっこりと微笑んだ。

 この見目麗しい仕草からは想像できないが、先生はリットル単位で飲んでいる。浴びるように飲むという形容が相応しい。常にグラスを手にしていて、いつも斜めに傾いており、何かしらのアルコールが体内に流れ続けていた。

 それに付き合った私は、やはり途中で意識いしき朦朧もうろうとしてしまい、そのまま解散という運びにはならなかった。私の酔い覚ましのために、近くの喫茶店で休んでいる。今日はオールも大丈夫だと、空になった栄養ドリンクを持参して自慢したのだが、凡人は天才には勝てないことを思い知らされただけだった。

「こんなところで仕事の話をするのも変ですが」

「あ、どうぞどうぞ」

「月島霧子さん、何か事情があるのですか?」

 月島は、あの一泊があってから、学校に来ていない。もう一週間が経っている。

「いえ、お母さんから話を聞く限り、ただの風邪らしいです」

「国立先生と問題でもあったんじゃないかって、少し疑ってしまって」

「たしかに学校に泊まりはしましたが、特に喧嘩するようなことは……」

 花本先生は、もう一口、抹茶ラテを味わう。

「月島霧子さんって、早熟というか大人っぽいというか、落ち着いた雰囲気がありますから。国立先生みたいな大人に憧れる年齢ですし、そういうことかもしれませんね」

 一夜をすごしたっていうイベントもありますし、それが理由でボイコットでもしているのではないでしょうか、と花本先生は冗談を混ぜてくる。私はコーヒーの苦みに任せながら、笑顔で応えた。

「月島霧子さんの話じゃありませんが」

 花本先生は、絶妙な角度で顔を向けながら、微笑む。

「国立先生は、ご結婚とか考えておられますか?」

 口内に苦みが広がる。さっきよりも表情が苦々しいかもしれない。

「もちろん意思はあるのですが、なかなか、うまくいかなくて……」

 私が結婚したいのはあなたですよ、などと言えるはずもなく。もごもごと言葉を濁すしかなかった。

「うまくいかない、ですか。でも教え子さんと結婚するのには、昔に比べて世間体を気にし――」

「――ちょ、ちょっと待ってください。どうして生徒と結婚することが前提になっているんですか!?」

「あら、違うんですか?」

「違います」

「だって、女子高生のほうがいいと、香川先生とお話されていたように記憶しているのですが」

「それは香川先生特有の、教師と生徒を物理的存在に還元してですね、大事なものを全部すっ飛ばしていると言いますが、そうやって私を煽って遊んでいると言いますか、でも本当は心配してくれていると言いますか、そういうことです」

「いろんな含みがあるんですね、香川先生のお言葉には」

「それはもう。とても物理的存在に還元できるものではありません、ええ」

 花本先生は、肩を揺らしながら笑った。

「国立先生は真面目だから、いずれは月島霧子さんのような生徒に言い寄られて、なし崩し的に籍を入れてしまうのではないかと予想したんですけれど」

「そんなのはフィクションの世界だけですから……」

「そうでしたか」

 変なことを聞いてごめんなさい、ビールのせいだと思ってください。そう彼女は補足する。

「でしたら、花本先生はどうなんですか?」

 私はゆっくりとコーヒーカップを、口元へ運ぶ。

「ご結婚については。いや、失礼な質問になってしまいますが」

「そうですね」

 肩肘をついて、物憂げな表情を浮かべる。

「気になっている相手が、いるにはいるのですが」

「え」

 思いっきりコーヒーカップを前歯にぶつけてしまった。その衝撃でコーヒーがこぼれそうになってしまう。

「大丈夫ですか?」

「す、すみません」

 近くの紙ナプキンで口を拭う。

「ただその方は、仕事中心の生活を送られていて、自由時間にお話しすることができないんです。私としても、決してゆとりがあるわけではなく、難しいところです」

「……そうでしたか」

 カップを丸机のうえに置く。

「花本先生みたいな人から好意を寄せられたら、喜んで時間作りますけどね、私だったら」

「もちろんその方も頑張ってくださっているのですが、まだまだ課題も多くて」

「課題ですか」

「あまりお酒が飲めないんですよ。せっかくのディナーなのに」

「もし私だったら、やっぱり努力する気がします。栄養ドリンクを飲んでからディナーに出かけたり、定期的にアルコールを飲んで身体を慣らしたりするとかして」

「あと不満なのが、私に対して奥手なんですよね。それとなくアピールしても気づかないというか、意を汲んでくれないというか。どうして気づかないんでしょうか」

「……それは、たぶん先生がきれいだから、その方は、遠慮されているんですよ」

「お互い好きなのに、いつまでも関係が進みませんね」

 花本先生は、優雅に微笑んだ。

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