4.1

「すまなかったな。練習時間を奪ってしまって」

 私は机に肘をつき、両手を組んで、彼女を見据えた。

 私と門田は、2年1組の教室へ向かった。彼女は「うわぁ、手籠めにされるぅ」と道中もはしゃぎっぱなし。人気のない教室の扉を開けて、門田の席まで移動する。彼女は自分の椅子に座り、私は隣から椅子を引っ張ってきて、そこに腰をかけた。

「やっぱり私にぷろぽぉず? 男も女もいけるって、すけべぇね」

「世の中を、門田の常識で考えるんじゃない」

「私が私以外の常識で、どうやって考えることができるんですかぁ?」

「そう正論を言われては、言い返せないな」

「やあねぇ。先生ってば」

 門田は椅子に座って、両足を遊ばせる。

「それでなんだが、門田、月島のことで話があるんだ」

 さっきまで不真面目に返事をしていた門田だったが、私の真剣な様子に気づいて、目の色を変えた。頬がわずかに痙攣(けいれん)し、一瞬だけ視線が逸れる。

「門田が頼んできたんだったな、月島の売春話が本当なのかどうか、確認して欲しいって」

「うん、そうだけど」

「あらかじめ断っておくが、私はお前を責めたり、月島をどうにかしようとは思っていない。ただ事実を確認したいと思っている」

「国立せんせ、いけずぅね……」

 人差し指を唇に当てて、思案する。

「屋上の売春話、あれはお前たちの作り話なんだろう?」

「……そんなん、違うし」

 彼女は声をひそませる。

「屋上で月島と会ってみたが、そんな素振りは見られなかった。屋上の状態も、しばらく人の立ち入った様子がない」

「それは、そうだったら嬉しいけど」

「それに噂をしているような生徒は、お前以外にはいなかった。もし誰かが、月島をからかっているんだったら、そんな小規模な噂はあり得ないだろう」

「そんなん言われても、私だって噂を聞いただけだし……」

「あと、佐々岡から話を聞いた。あいつも屋上で、月島と話をしたらしい」

「えっ、なんであいつが――」

 そこまで言うと、彼女は口をつぐんだ。

 少し待ってみたが、門田に話を続ける様子はない。私は説明を続ける。

「月島に言われたそうだ。佐々岡を待っているわけじゃないし、せっかく苦労したんだから、屋上から出ていって欲しいと」

「……佐々岡の言うことなんか、信じられんよ、せんせ」

「だとすれば、私は誰を信じればいいのだろうな。佐々岡を信じればお前を疑わなければならないし、お前を信じれば佐々岡を嘘つきにしてしまう。もし月島を信じれば、今度は売春行為を認めないといけない」

「月ちゃん、自分でしてるって言ったの……?」

「言ったぞ。私にはサービスしてくれるそうだ」

 もちろん冗談だろうがな、と私は補足した。

「もう一度言うぞ。私は、門田や月島をどうにかしようとは考えていない。事実が私の考えている通りだとしても、それで終わりだ。いいようにからかわれてしまったんだな、と笑うしかないからな」

「……ほんとに、怒らん?」

 上目遣いで、私の感情を読みとろうとする。

「約束する」

 すると門田は大きく息を吐いた。その仕草は、ずっと背負っていた何かを、一気に降ろしているように見えた。

「実はね、月ちゃんから頼まれたん。国立先生と二人っきりで話がしたいから協力してって」

 無言で頷き、続きの言葉を待つ。

「けどね、私はちゃんと説得したんよ? そんなことせんでも話し相手になってくれるって。でも月ちゃん、そんなん納得できないって。それじゃただの先生と生徒のままだから、むしろマイナスだって」

「で、あの嘘を思いついた」

「うん。せんせが動かないといけないような理由がいるからって。けっこう二人で真剣に考えたけど、簡単にばれてしまったね」

「当たり前だ。噂話というのは、もっと雲をつかむようなものだ。なのにあの話ときたら、やけに具体的すぎる。最初から変だとは思ってた」

「そうかぁ、設定を考えすぎたんが、まずかったんよねぇ」

 門田は、両足からぱたんと一気に力を抜く。

「ごめんね、せんせ。悪気がなかったと言えば嘘だけど、でもそこまで悪意はなくて。私に怒られるからって言ったけど、月ちゃんは言い出したら聞かないんよ。それよりもせんせを怒らせたいくらいだって」

「怒らせたいときたか。それはずいぶんな言い方だな」

 ――先生はフィクションではありません……現実の先生を楽しんだほうが――

 屋上で交わした会話が、思い出される。

「どうして門田は、月島に従ったんだ? そんなに嫌なら断ればいいだろう?」

「ちょっと私も楽しかったってのもあるけど、月ちゃんとは、昔からこうだから」

 それから門田は、中学時代から続いている月島との関係について語り始めた。

 苫田井高校のある学区に引っ越してくるまで、南部の中学校に通っていたと説明した。そこの生徒たちは素行が悪く、学校内ではいじめや不登校や暴力行為などが当たり前であり、学校外ではアルコールや薬物、夜遊びや風俗に手を染める者も、一定数いたという。それらの逸脱行為が、彼らにとってのスクールカーストの上位にいる証であり、勉強ができたり真面目な性格でも意味がなかったのだという。

 そんな環境で、月島は不思議な存在だったらしい。

 カーストの上位グループに属しながらも、勉強は真面目にこなし、夜遊びや風俗といった危険な行為には一切手をつけない。遠巻きに、彼らを眺めるだけだったという。かといって反対に、下位カーストのグループに所属するようなこともなく、めりはりをつけて遊んでいたらしい。門田は、いわゆるオタク的な趣味を持っていたため、下位カーストで細々とすごしていたが、月島と行動するようになって、上位グループからのいじめを免れるようになったという。命の恩人というわけだ。

「月ちゃんには助けられたし、言うことには逆らえないというか、恩があるから」

 ようやく事情が見えてくる。

 月島霧子と門田杏の関係は、私が思っていたものとは逆らしい。つまり元気のいい門田が、大人しい月島を引っ張っているのではなく、月島のほうが、目立たないかたちで、門田をリードしていたようだ。

「中学んときから、月ちゃんは悟っているっていうか、醒めているっていうか、ほんと笑うところなんか見たことがなかったんよ」

「そうだな、今も一緒だな」

「ううん、先生。それは違うよ」

「違う?」

「月ちゃんね、ここに入学したとき、国立せんせを見て笑ったんよ。あんな顔、見たことなかった。だから月ちゃんは、昔からせんせのことを狙ってたんだと思う」

「狙う、か」

「国立せんせさ、何っていうか、悪い人じゃないんだけど、女子から見たら滑稽なところがあるんよ。あ、怒らないで。私はいい意味で言ってるから、いい意味で」

「ふん、余計なお世話だな」

 鼻を鳴らして、気にしていないことを門田に伝える。

「いっつも正しいことを言うっていうか、杓子定規っていうか、学校のなかだけで通用することしかしないから」

 門田の言い方に、少しカチンとくる。

 たしかに学校という場所は、世間離れしてはいる。だがそれは社会で一人前になるために必要な建前を教えなければならないからだ。教師が世間ずれしていては意味がない。

 ただ高校生という子どもの立場からは、まだ分からないだろう。

「それで、どうやって先生をからかおうかって話してたら、月ちゃんと盛りあがっていって、こうなってしまって」

「そうか。だいたい事情は理解できた」

 つまりは子どもの悪戯だ。

 いい大人をからかって遊んだというだけで、売春も何もない。気分がいいわけではないが、悪戯というささやかな現象だと分かり、一安心していた。

「国立せんせ」

 門田は膝のうえに両手を乗せ、所在なさそうに太ももを動かす。

「ん」

「月ちゃんに悪気はなかったんよ。せんせが好きだから、あんなことしただけで。怒らんであげて欲しい」

「別に怒りはしない。好き勝手やられたな、と思っているだけだ」

「なら、よかった」

 門田は胸をなでおろす。

「ただ月島とは、話をしないといけないな、二人だけで」

「わぁ、せんせ恐ろしいわぁ。月ちゃんに、どんなえっちなことするの?」

「門田の常識は、私にとっては非常識だな」

 門田との会話を切りあげると、私は体育館に向かった。きっと月島の常識もまた、そうなのだろうと考えながら。

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