第1話 せんせったら、いけずぅ
「そろそろ中間試験の問題を作らないとな」
部活指導を終えた私は、体育館をあとにしていた。
『
「
すると背後から、三人の男子生徒の声が、勢いよく近づいてくる。
男子バレー部の部長をしている
さっき彼らに交じってバレーをしていた――はずなのに。
過ぎ去っていく彼らに追いつける気がしない。まだまだ元気なつもりでいても、30歳を間近にして、身体は正直なのだと嘆息する。
のんびりと歩いて下駄箱に到着し、回れ右をして、職員室へと向かう。
「国立せんせー、お疲れ様」
今度は、女子生徒の声が、背後から届いてきた。
「一緒に青春しないんですかぁ? 男同士のじゃれ合いはないの?」
「どういう意味だ、
わざと小憎らしい表情を見せながら、彼女を振り向く。
「日夜、男子バレー部員が集合する、私立苫田井高等学校の体育館。そんな夢のような空間で、我らが高校ずいいちの堅物教員、
「何を想像しているのかは知らないが、あまり大っぴらにできない類の内容であることは伝わってくるぞ」
「ふしだらな解釈をしないでください。これは新しい美学なんですよ」
門田は幸せそうに、歯を見せずに笑い、口をもごもごさせる。目も心なしか踊っていた。
「美学もけっこうだが、その美意識は、うちの校則には違反しているからな」
私は片目をつむりながら、彼女のスカートを指さす。
「膝下だと説明しただろう。何度言えば分かってくれるんだ」
「せんせは、私のスカートが短いとドキドキしちゃう? 視線奪われちゃう?」
「奪われるのはお前の平常点だ。内申に響くかもしれないと、門田はドキドキしたいのか」
「せんせ、も少し私に優しくしてよ。私も、私の美学も大事にして」
スカートのウエスト部分を引っ張りあげて、さらに短くしてみせる。
この女子生徒は
「月ちゃんだって、せんせに優しくして欲しいって。そう思ってるよねー」
門田は、すぐ隣にいた女子生徒の肩に手を置いた。「月ちゃん」と呼ばれた生徒は、目をしばたたかせながら、門田に視線で応える。
彼女の名前は、月島霧子と言う。彼女もまた門田のように、2年1組に所属し、吹奏楽部の部員だ。とても大人しい生徒で、自分から積極的にしゃべることは、ほとんどない。おしゃべりな門田と好対照だ。成績はよく、どの科目でも高得点をたたき出す、いわゆる手のかからない生徒として認識している。
「汗と筋肉と性欲の吹きだまりのような男子バレー部。かつては弱小部として、誰からも相手にされなかったところにですね? わざわざ顧問を買って出てですね? それで今年の県大会で優勝し、インハイへの出場権を獲得してしまってですね? 一体、何が起きたのかって、みんな思ってるんですよ。どんなことをすれば、部員たちのやる気を引き出せるのかって」
「適切な練習を、ただ繰り返しただけだ。私もバレー経験者だからな」
「きっと陰では、あらん限りの身体接触を行っているに違いない。そう私の美学が訴えている」
彼女は左手の親指と人差し指で輪っかを作り、そこに右手人差し指を突っ込んだ。卑猥だな。まったく。
「お前の美学を理解できる日が、いつか来るといいんだがな」
「月ちゃんだって、せんせの指導に興味津々のはずですよー?」
門田の呼びかけに、無表情のまま視線で応える月島。
私を巻き込むな、興味はないから、と言っている気がする。
「もしせんせがバレー部での所業を教えてくれたら、私だって頑張っちゃうよ」
「ほう、具体的には?」
「女子高生とのお見合いやデートのセッティングなら、いつでもOK」
「悪い冗談だ。お前たちのような子どもとデートしてどうする」
「国立せんせったら、いけずぅ」
門田は口先を尖らせた。いけずぅなんて台詞、どこで覚えてきたんだか。
「私の思いやりが、どぉーして分からないの? 国立っちはお年頃なのに、結婚の話もなければ恋人ができたという噂もない。結婚式に呼んでくれたら、絶対に泣けるスピーチをするぞっていう、この私の決意はどうなっちゃうの?」
「外にでも投げ捨てたらいい。そして高校生活に専念しろ」
「本当は恋人いるんでしょ?」
「ああ、実はな」
私の返事に、門田がどよめきだった。隣の月島は、瞬きの回数が多くなった気がする。
「空にな」
「空? ラピュタみたいに恋人が落っこちてくるの待ってるの?」
「いや、空集合だ」
「空襲壕ですか。過激な恋人さんですね。男子生徒との浮気を警戒しているとか?」
「門田が、授業をまったく聞いていなかったってことは、よく分かった」
「空から落っこちてきたのは、血の雨? それとも天の火?」
間違いを意に介さない門田に、ため息が自然とこぼれてくる。
「数学の時間に、集合論の話をしただろう? 本当に覚えていないのか?」
「そうやって話をずらそうとしても駄目ですよ」
「要素を持たない集合は空。つまり何もない、空しいだけ」
「じゃあ、本当にいないってこと?」
「ああ」
門田はにぃーっと、月島に顔を近づける。
「空になったせんせの心、私と月ちゃんで満たしてあげようか?」
そして白い歯を見せながらぴったりと身体を寄せる。そしてなぜか月島も真似してきた。門田につい合わせてしまったんだろうな。
「さっきも言っただろう。女子高生の相手はしない」
「せんせって年上が好きなの? 若い子は嫌い?」
「高校生同士でやれ。先生は大人なんだ。大人は子どもを教育するのが仕事だ。一緒になって恋愛をするようなことはない」
「わぁん、いけずぅ」
門田はがっくりと肩を落とす。隣の月島は、ぼんやりと私を見つめたままだった。
「私たちは、もう大人ですって。ちゃんと恋愛対象になりますって」
「年齢や容姿のことを言っているんじゃない」
「じゃあ、どこが子どもだって言うんですかー」
「中身」
「なっ、かっ、みっ!」
舌を噛みそうになりながら、とぎれとぎれに音声を吐き出した。
私は「じゃあな」と踵を返して、職員室へと歩き出す。「逃げられた!」と門田の遠吠えが聞こえてきたが、振り向くことなく進んだ。
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