第1話 せんせったら、いけずぅ

「そろそろ中間試験の問題を作らないとな」

 部活指導を終えた私は、体育館をあとにしていた。

苫田井とまだい高校』というエンブレムの入った、大きめのボストンバックを肩にぶら下げながら、職員室へとつながる廊下を進む。バックのなかに詰め込まれた、男子バレー部のユニフォームやタオル、練習メニューの書かれたノートなどが、歩くリズムに合わせて踊っている。

国立くにたち先生、さよならー!」「さよならさん!」「さようなら!」

 すると背後から、三人の男子生徒の声が、勢いよく近づいてくる。

 男子バレー部の部長をしている佐々岡ささおか信二しんじ、その友人である柴田しばた麻生あさお武田たけだ邦明くにあきの三人組は、そのまま私を追い抜いていった。下駄箱まで一直線に進み、嵐のように下校していく。あまりの速度に、挨拶を返すこともできなかった。

 さっき彼らに交じってバレーをしていた――はずなのに。

 過ぎ去っていく彼らに追いつける気がしない。まだまだ元気なつもりでいても、30歳を間近にして、身体は正直なのだと嘆息する。

 のんびりと歩いて下駄箱に到着し、回れ右をして、職員室へと向かう。

「国立せんせー、お疲れ様」

 今度は、女子生徒の声が、背後から届いてきた。

「一緒に青春しないんですかぁ? 男同士のじゃれ合いはないの?」

「どういう意味だ、門田かどた

 わざと小憎らしい表情を見せながら、彼女を振り向く。

「日夜、男子バレー部員が集合する、私立苫田井高等学校の体育館。そんな夢のような空間で、我らが高校ずいいちの堅物教員、国立くにたち一弥いつやが激しく優しく、ときにいやらしく部員たちを指導する。『先生っ!』『こういうのが好きなんだろっ!』――そして今日もまた、彼の犠牲者が生まれるのであった」

「何を想像しているのかは知らないが、あまり大っぴらにできない類の内容であることは伝わってくるぞ」

「ふしだらな解釈をしないでください。これは新しい美学なんですよ」

 門田は幸せそうに、歯を見せずに笑い、口をもごもごさせる。目も心なしか踊っていた。

「美学もけっこうだが、その美意識は、うちの校則には違反しているからな」

 私は片目をつむりながら、彼女のスカートを指さす。

「膝下だと説明しただろう。何度言えば分かってくれるんだ」

「せんせは、私のスカートが短いとドキドキしちゃう? 視線奪われちゃう?」

「奪われるのはお前の平常点だ。内申に響くかもしれないと、門田はドキドキしたいのか」

「せんせ、も少し私に優しくしてよ。私も、私の美学も大事にして」

 スカートのウエスト部分を引っ張りあげて、さらに短くしてみせる。

 この女子生徒は門田かどたあんずと言う。さっき走っていった男子バレー部三人組と同じく、私が担任をしている2年1組の生徒だ。吹奏楽部に所属していて、練習の終わる時間が、男子バレー部と重なっている。そのためよくこの場所で遭遇する。誰にでも話かけることのできる人懐っこさがあり、教員の受けもいい。ムードメーカーとして親まれている。ただ彼女の趣味については謎が多く、ときおり授業中、鉛筆と消しゴムを並べてはにまにましているのだが、その不穏な気配に、誰も一歩を踏み出せないい。

「月ちゃんだって、せんせに優しくして欲しいって。そう思ってるよねー」

 門田は、すぐ隣にいた女子生徒の肩に手を置いた。「月ちゃん」と呼ばれた生徒は、目をしばたたかせながら、門田に視線で応える。

 彼女の名前は、月島霧子と言う。彼女もまた門田のように、2年1組に所属し、吹奏楽部の部員だ。とても大人しい生徒で、自分から積極的にしゃべることは、ほとんどない。おしゃべりな門田と好対照だ。成績はよく、どの科目でも高得点をたたき出す、いわゆる手のかからない生徒として認識している。

「汗と筋肉と性欲の吹きだまりのような男子バレー部。かつては弱小部として、誰からも相手にされなかったところにですね? わざわざ顧問を買って出てですね? それで今年の県大会で優勝し、インハイへの出場権を獲得してしまってですね? 一体、何が起きたのかって、みんな思ってるんですよ。どんなことをすれば、部員たちのやる気を引き出せるのかって」

「適切な練習を、ただ繰り返しただけだ。私もバレー経験者だからな」

「きっと陰では、あらん限りの身体接触を行っているに違いない。そう私の美学が訴えている」

 彼女は左手の親指と人差し指で輪っかを作り、そこに右手人差し指を突っ込んだ。卑猥だな。まったく。

「お前の美学を理解できる日が、いつか来るといいんだがな」

「月ちゃんだって、せんせの指導に興味津々のはずですよー?」

 門田の呼びかけに、無表情のまま視線で応える月島。

 私を巻き込むな、興味はないから、と言っている気がする。

「もしせんせがバレー部での所業を教えてくれたら、私だって頑張っちゃうよ」

「ほう、具体的には?」

「女子高生とのお見合いやデートのセッティングなら、いつでもOK」

「悪い冗談だ。お前たちのような子どもとデートしてどうする」

「国立せんせったら、いけずぅ」

 門田は口先を尖らせた。いけずぅなんて台詞、どこで覚えてきたんだか。

「私の思いやりが、どぉーして分からないの? 国立っちはお年頃なのに、結婚の話もなければ恋人ができたという噂もない。結婚式に呼んでくれたら、絶対に泣けるスピーチをするぞっていう、この私の決意はどうなっちゃうの?」

「外にでも投げ捨てたらいい。そして高校生活に専念しろ」

「本当は恋人いるんでしょ?」

「ああ、実はな」

 私の返事に、門田がどよめきだった。隣の月島は、瞬きの回数が多くなった気がする。

「空にな」

「空? ラピュタみたいに恋人が落っこちてくるの待ってるの?」

「いや、空集合だ」

「空襲壕ですか。過激な恋人さんですね。男子生徒との浮気を警戒しているとか?」

「門田が、授業をまったく聞いていなかったってことは、よく分かった」

「空から落っこちてきたのは、血の雨? それとも天の火?」

 間違いを意に介さない門田に、ため息が自然とこぼれてくる。

「数学の時間に、集合論の話をしただろう? 本当に覚えていないのか?」

「そうやって話をずらそうとしても駄目ですよ」

「要素を持たない集合は空。つまり何もない、空しいだけ」

「じゃあ、本当にいないってこと?」

「ああ」

 門田はにぃーっと、月島に顔を近づける。

「空になったせんせの心、私と月ちゃんで満たしてあげようか?」

 そして白い歯を見せながらぴったりと身体を寄せる。そしてなぜか月島も真似してきた。門田につい合わせてしまったんだろうな。

「さっきも言っただろう。女子高生の相手はしない」

「せんせって年上が好きなの? 若い子は嫌い?」

「高校生同士でやれ。先生は大人なんだ。大人は子どもを教育するのが仕事だ。一緒になって恋愛をするようなことはない」

「わぁん、いけずぅ」

 門田はがっくりと肩を落とす。隣の月島は、ぼんやりと私を見つめたままだった。

「私たちは、もう大人ですって。ちゃんと恋愛対象になりますって」

「年齢や容姿のことを言っているんじゃない」

「じゃあ、どこが子どもだって言うんですかー」

「中身」

「なっ、かっ、みっ!」

 舌を噛みそうになりながら、とぎれとぎれに音声を吐き出した。

 私は「じゃあな」と踵を返して、職員室へと歩き出す。「逃げられた!」と門田の遠吠えが聞こえてきたが、振り向くことなく進んだ。


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