1.1

 私は職員室へ戻ると、自分のデスクに腰をおろした。ボストンバックを側に置き、休止状態になっていたパソコンを再起動させる。作りかけの中間試験のデータを開いて、カチカチとキーボードを叩いていると、

「国立先生、今日も遅くまでお仕事ですか?」

 隣のデスクから、女性教員が声をかけてきた。

「はい。中間試験の問題作成を終わらせておきたくて。インハイに向けた練習メニューも練り直したいと思っていますし、それに生徒との学級ノートにも返事を書きたいですから。そのためには終わらせられる仕事から手をつけるのが一番ですからね」

「熱心ですね。頭が下がります」

 その女性はわずかに微笑んだ。その美しい微笑みに、私の鼻の下が緩む。

 彼女は花本はなもと羽地はじと言って、今年の春、赴任してきた国語の先生だ。以前ここに勤めていた国語の先生が依願退職し、そのあとに講師として採用されている。

 私と同じ若手教員として先生方からは認識されているが、まだ20代前半で初々しい雰囲気を持っている。丁寧で分かりやすい授業をすると評判で、とりわけ男子生徒からの人気は絶大だ。花本先生についての欲望に正直な発言を、何度か耳にしたことがある。

「でも無理はしないでくださいね。ただでさえ部活指導で忙しいのに、生徒指導主任までなさっているのですから」

 高校という場所は、授業をするだけのところではない。

 もちろん多くの時間が、授業をよりよいものにするための教材研究、事前・事後の反省に費やされるが、他にも多種多様な仕事がある。たとえばよく知られているものとして、校長先生、副校長先生、教頭先生といった職階があり、それに応じた役割がある。だが、あまり有名でないものとして「しょく」と呼ばれる仕事があるのだ。

 たとえば教務主任と呼ばれる充て職は、学校のカリキュラム全般に関わらなければならない。年間の指導計画や、必要な場合は、生徒個別の指導計画の立案・実施に携わるため、先生方との密な連携に気を回すことになる。他にも、学年主任に保健主任、進路指導主任などがあり、そのなかでも私は生徒指導主任というものを担っている。日頃の生活態度などを調べたり、助言したりする。スカート丈のチェックもその一環だ。問題行動を起こしそうな生徒、あるいは起こしてしまった生徒の対応も行う。言ってみれば、生徒の人間関係を担当するような仕事だ。だからといって、この仕事が授業と無関係かといえばそうでもない。日々のコミュニケーションの積み重ねが、結局は、生徒たちの前向きな授業態度につながるからだ。

「お気遣いありがとうございます。自分でも働きすぎているとは思うのですが、つい熱が入ってしまって」

「国立先生らしいお言葉ですね」

 私の苦笑いに、花本先生は笑顔で出迎えた。

「花本先生だって、いつも遅くまで頑張られているじゃないですか」

「私は実家暮らしですから。家事を家族に任せられます」

「それにしても、頑張っておられますよ」

「ありがとうございます。せめて22時前には帰りたいですよね、お互いに」

 花本先生は、悩ましげに頬に左手を添える。

 薬指に指輪はない。

 思わず視線が向かってしまったことを悟られないように、薬指から視線を、職員室の中央へと流す。

「きれいな花本先生を見なくていいのか?」

 視線の先には、不敵に笑う、男性教員が仁王立ちしていた。どうにか視線をソフトランディングさせたつもりだったが、これではとんだ大事故だ。

「いい年して、高校生みたいなことをするな。もうおっさんだろ。こそこそしてないで正面から行ったらどうなんだ」

 その男性は寄れ曲がったネクタイで遊びながら、子どものような瞳を向けてくる。

 この人は、多崎たざき泰一やすいちという名前で、ここの教頭先生をしている。ぼさぼさの髪型に、細い体躯と手足をなびかせている。もう50歳はすぎているというのに、いつも散歩と称しては職員室を出ていって、生徒と立ち話ばかりしている。クラス担任を受け持っていないのに、生徒受けがいい。

朴念仁ぼくねんじんの国立先生はどうでもいい。俺の花ちゃんの晴れ着姿を見てやってくれよ。この間、成人式を迎えてだな」

 シャツの内ポケットから、携帯を取り出しし、そこに保存されている写真を見せてくる。

「ほんと、ママさんに似てべっぴんだ」

 でれんと頬が緩む。そのまま地面に落ちてしまいそうだ。

 この多崎教頭を象徴するのが、その結婚相手。先生はここに長く勤めているのだが、奥さんは自分が担任していた教え子らしい。ちょうど30歳のときに結婚して、一人娘をもうけている。

「国立先生」

 もう自慢に満足したのか。携帯をポケットにしまい、今度は真顔を向けてきた。

「結婚はいいぞ」

「そうですか」

「子どもはもっといいぞ」

「学校にたくさんいますよ」

「早く花本先生と結婚しろ」

「完全にセクハラじゃないですか、それ」

「だが教え子だけは駄目だ。お前には社会人が相応しい。いい年して、女子高生に血迷うんじゃないぞ」

「多崎先生と一緒に受けたハラスメント講習は、あまり意味がなかったようですね」

「そう恥ずかしがるな。吉報を期待しているぞ」

 悔しいかな。鼻のつけ根あたりが熱を帯びる。つまりは多崎教頭の言う通りで、私は花本先生に思いを寄せている。だが仕事も楽しく、なかなかアプローチする機会がない。こうやって仕事の合間に交わす雑談が、心のオアシスだったりする。

 私と教頭とのやりとりを眺めながら、苦笑する花本先生を見て、鼻の熱は頬へとスライドしていった。しかも温度が心なしか高い。

 話をごまかすために、「多崎先生」と話題に移る。

「一学期が終わると、男子バレー部の全国大会があります。一、二週間ほど生徒たちを連れていきたいのですが、バスのチャーターと、もう一名程度の引率補助は可能でしょうか」

「保護者への連絡を事前にしておくことと、生徒たちの安全が最優先だ。あとは野球部のように好き勝手にしてもらって構わない。ただし申請書類は事前に用意しておけよ」

 多崎教頭は、必要事項をすらすらと列挙する。

 学校はとにかくイベントの多いところだ。行事があるたびに、関係者に向けた説明をしなければならないし、用意する書類も膨大になる。フィクション作品で描かれるように、先生が思いつきで行動するようなことはない。そんなことをすれば、手続きの不備と安全管理の問題で、責任追及されるのが関の山だろう。

 とりわけ責任は、要職についていれば重くなる。言動の軽い多崎教頭だが、こういったときの対応はきっちりしていたりする。

「引率補助をお願いする先生は、もう決まっているのか?」

「いえ。そろそろお願いに伺おうかと思って――」

「――花本先生、そういうわけだから。バレー部についてやってくれ」

「はっ? ちょっと勝手に何を」

「二人のあいだに、遠征先で何かが起きたとしても、私は気にしないからな。むしろ楽しみにしている」

「「多崎教頭っ!?」」

 私と花本先生は、勢いよく叫んだ。

「何だ、仲がいいじゃないか。これなら問題ないな」

 よれよれのネクタイでばいばいしながら、多崎教頭は職員室を出ていった。なんて無責任なんだ。

「あの、花本先生、あれはその、勝手に多崎先生が言っていることなので……」

「はい……」

「すみません、ほんと、いろいろさっきから、ごめんなさい……」

「いえ……」

 それから私と花本先生は、言葉を交わせなかった。多崎教頭や他の先生はさっさと帰ってしまい、二人で机を並べながら、気まずい雰囲気のなかで仕事をしなければならなかった。

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