第2話 おしゃべりな私は嫌いですか
「授業はここまでだが」
迎えた翌日。
早朝の職員会議とHRを終えた私は、一時間目の数学の授業を終えたところだった。終了の予鈴までは五分ほど時間が余っている。
「少し、大事な話をしておきたい」
ノートをとらなくてもいい、いつもの国立の雑談だと前置きすると、2年1組の連中は緊張した表情から一転して、のんびりとした表情を浮かべた。
「そもそも数学が何の役に立つのか。考えたことはあっても、ちゃんと答えを持っていない人が多いと思う。だから私なりの考えを伝えておきたい。今日聞いたことは、今は理解できないかもしれないが、いつかは分かるようになる」
手にしていた教科書を教卓に置くと、そこに両肘をついて、やや前のめりの体勢で、生徒たちに向き合う。
「実はな、高校までの数学は、本当の数学じゃない。他人が考えた結論を、なぞって、暗記して、テスト前に模倣して、それで終わるからだ。もちろんそれだって大事なことだぞ? いろんな専門家が話し合って、これは伝えるべき内容だと選別されたものが教科書には書かれてあるからな。ただそれでも、数学の本質はそこにはない」
生徒全員を見回す。
またいつものあれだよ、そんな諦めと好奇心の混ざった視線が、こちらに返ってきた。すぐさま門田が「今日も長いんですか」と茶々を入れると、教室内に笑いが満ちた。「そうだ」と返事をする。
「さっきまで微分・積分の話をしていたが、座標軸と代数というのは、実は別々に考えられていたんだ。それを哲学者のデカルトという人が結びつけたと言われている。定数をabcで表現し、未知数をxyzで書くスタイルなんかも、彼の発案らしい」
「先生、よく分かりませーん」「俺もでーす」
今度は、男子バレー部の柴田と武田が入ってくる。ここでもクラスに笑いが巻き起こる。
「なら要点だけ話すぞ。デカルトが偉大だったのは、座標で表現できていた幾何学を、代数に置き換えることに成功したからだ。二次関数を覚えているか? 正の二次関数は下に凸、負の場合はうえに凸って話。これは当たり前のように理解しているが、代数が座標軸上の曲線になっているだろう。この代数と幾何という別々の世界をつないだ、というのが革命的だったんだ」
私は背後を振り向いて、板書を始める。まず十文字に座標軸を切り、そのうえに曲線を描いた。
「たとえば通訳という仕事があるだろう? 英語を日本語にしたり、その逆をしたり。自分の言葉しか分からない人に、未知の言葉を理解させ、新しい世界を伝えることができる。それは両者の争いを減らすだろうし、理解し合える喜びを生み出している。デカルトがやったことは、つまりそういうことなんだ」
こつこつ、とチョークで黒板を叩く。
生徒たちは、いつになく真剣な顔で、私の話を聞いていた。
「そうやって私たちの世界を広げてきたのが、まさに数学の歴史そのものだ。その集大成をみんなは勉強している。それは覚えるだけのものじゃない。今度は、みんな自身が、その歴史の遺産を利用して、さらに新しい世界を見出すことこそ重要なんだ」
「せんせ、新しい世界って何ですか」
挙手した門田が質問をしてくる。
「私には分からない。みんなにはみんなの世界がある。今の私には見えない。だが、数学の本質をつかめば、私とみんなの世界がつながるかもしれない。私もそうしたいし、みんなもそうしてくれると嬉しい」
そこまで説明すると、予鈴が鳴った。
「じゃあ、今日はここまでだ」
私は話を切りあげ、日直に終わりの号令をかけさせる。すると各々の生徒が、友達の机に向かったり、教室外に出たりし始めた。
「せんせー」
黒板に付着している白粉を拭き落としていると、門田の声が近寄ってきた。
「なんだー」
背中を向けたまま、彼女の口調を真似する。「月ちゃん、真似されちゃった」と笑った。どうやら月島もいるらしい。
「さっきの話、続きはないんですか?」
「あれで全部だぞ」
「明日も数学あるでしょ。そこで続きの話をしてよ」
「そうやって授業時間を減らそうとしたって駄目だからな」
「可愛い生徒の向上心を削ぐようなこと言っちゃて、せんせこそ駄目じゃないですか」
「揚げ足をとるな」
黒板をきれいにし、そのまま教室の出口を目指す。
「じゃ、私と月ちゃんだけに特別授業して? 今日の放課後とか、国立せんせの家まで遊びにいくから」
「私がお前たちを、自宅に案内すると思うか? 危なっかしい」
横目でちらりと二人を見る。
「それって私たちが、せんせに襲われるから?」
「逆だ」
「じゃ、放課後によろしくねー」
月ちゃん行こう、と門田は教室の奥へと走っていった。
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