5.4

 苫田井高校と丘花山駅から、ちょうど等距離。

 築数十年はあろうかという、二階建ての安アパートのワンルーム。

 その一隅には、『国立』というプラカードが掲げられた扉。扉の奥には、殺風景な部屋が広がっており、使い古された煎餅布団が、中央を占拠している。部屋の端っこには、小さな作業机とノートパソコンと電波時計。キッチンには、まだ洗われていない食器が数枚、放置されている。

「ぶえっくしょん!」

 尋常ではない量の鼻水があふれた。

 床に転がっていたティッシュを使って、それを拭う。

 鳴り響く頭痛、背筋を支配する寒気、全身を襲う倦怠感。寝返りを打つ気力すらない。医者に処方された薬を飲み、ひたすら布団で耐えていた。

「寒い……」

 つまるところ、私は大風邪を引いていた。

 月島と言い合った直後、病院へと向かったのだが、その頃から体調が狂い始めていた。すぐに診察を受けることができたが、診断結果は風邪。薬を処方してもらい自宅に引きこもった。

 ――どうしてもっと体調管理に気を払わなかったのだろう。

 あらゆる現象には、必ず原因がある。この風邪もまた同様だ。もっと気をつけていれば、こんな辛い思いはしなかったはずなのに。後悔先に立たずという金言が、いつまでも意味を持ち続けるのは、いつまで経っても反省できない私のような人間がいるからだろう。あるいは、人間という存在は、失敗しても学べないのかもしれない。

 ――馬鹿馬鹿しい。止めよう。

 そう、いくら理屈を振り回しても、この痛みや寒気は騙せないのだから。そんなことより、目の前の問題に取り組むのが先決だ。

「もしもし、国立です」

 枕元に放置してあった携帯から電話をする。

「あら先生、電話とは珍しいですね」

 すぐに花本先生が応じてくれた。

「すみません。どうも風邪を引いてしまいまして、本日は休暇をいただきたいと、先生方にお伝えいただけますか」

「はい。ほんと、ひどい鼻声ですね」

「昨日はすぐに病院に行ったのですが、一歩及ばず、このざまです。ただインフルエンザではないらしいので、安心してください」

「先生もこれを機会に、しっかり休んでくださいね」

「ですが、部活が……」

「無理していらっしゃっても、あまり意味がなさそうですよ。昨日の騒ぎは、まだ下火になってませんから。顔を出しても駐車場に追いやられるだけですからね」

「……何とまあ」

「不幸中の幸いだと思って、まずは英気を養ってください」

「そう、ですね……あ、あと――」

「――あの二人との面談なら、多崎先生がなさってくれるそうです。彼らとも仲がいいみたいなので、お任せしてもいいと思います」

「……分かりました」

 ずずっ、と鼻水をすする。

「ところで先生、ちゃんとお薬は飲まれましたか?」

「はい、どうにか」

「熱はあります?」

「はい、かなり」

「食事は採られてますか?」

「いえ、昨日から全然」

「…………」

「花本先生、どうかされました?」

「どうにか時間を作ります。放課後になったらお見舞いに行きますね」

「あ、いえ、そこまでしていただかなくても――」

「――私が話をしたいときに話し相手になる。そういう約束だったでしょ?」

「…………風邪がうつるかもしれないじゃないですか」

「あら、風邪がうつるようなことを、私にしてくださるんですか?」

「…………」

「先生、病気のときはお互い様ですから。どうか安心して甘えてください」

「……分かりました、お願いします」

「できるだけ急ぎますね」

 そして通話は切れた。

 携帯を放り出し、布団のなかで脱力する。

 ――放課後になったら、花本先生が来るのか。

 そう考えるだけで、頭が沸騰しそうになった。ただでさえ熱を帯びているというのに。

 ――あ、やばい。

 その事態の大きさに気づいてしまう。

 花本先生が来るということは、この部屋を見られる、ということを意味する。

 カップ麺の容器、練習用の缶ビール、脱ぎ捨てたままのシャツ、ゴミ箱に溜まっているアレコレ。パソコンに保存してあるソレコレ。全部、見られるかもしれない。

 人間の頭脳は、羞恥心を守るために存在しているのではないか。そう感じずにはいられないほど、隠すべき事柄を瞬くく間にピックアップした。

 ――動くぞ。

 両頬を叩き、奮い立たせる。その振動が、頭蓋骨に響いて痛かった。

 もぞりと布団から出ると、すぐに冷たい風が、首筋に吹き込んできた。まずはパソコン前に移動し、余計なデータやダウンロード履歴等を消去する。

 次に、ゴミ箱に溜まっているものを、ビニール袋に入れて縛った。これを捨てさえすれば、もう証拠はない。

「あと、は」

 キッチンの食器を洗うだけ。

 壁に体重を預けながら、ゆっくりと立ち上がる。身体の節々に痛みが走り、一気に視界がフェードアウトしそうになる。頭が揺れないよう、薄氷を歩むように台所へと向かった。

 だが蛇口をひねろうととしても動かない。握力がすっかり失われてしまっている。これは食器云々よりも、水分補給ができないとう由々しき事態ではないか、いや、いざとなればトイレがある。

 ――そんなことを考えている場合ではない。

 食器は諦めよう。とりあえずこのゴミ袋を、ゴミステーションに捨ててこなければ。そう考えて、腰をかがめると、いきなり意識が暗転した。

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