5.5
――ピンポーン――
何かの音が、眠りを覚ます。視界の暗幕が、ゆっくりとあがる。
次第に意識が回復してくると、自分の身体が、台所に横たわっていることに気づいた。全身が冷え切っている。まずい。どうにか着替えて、布団に避難しないと。
――ピンポーン――
今度は、インターホンの音として、耳に届いてきた。
机上の時計を見ると、自然数とコロンが『16:00』を示している。もう放課後がすぎてしまっている。まだゴミ袋を片づけてはいないが仕方がない。冷たく重い身体を引きずりながら、玄関へと移動する。
「すみません、わざわざ――」
「――国立先生、こんにちは」
体重を利用しながらどうにか玄関を開けると、買い物袋を持った、黒髪の女子高生が立っていた。
「……月島か?」
「はい、私です。分かりませんか?」
「お前、どうしてこの場所が……」
「先生は律儀ですね。携帯に、ちゃんと自分の住所まで登録するんですから」
「……なるほどな」
「先生が風邪だって聞いて、いてもたってもいられませんでした。学校が終わったら、すぐに駆けつけようって決めてたんです。だから今日はお見舞いです」
「これも化けの皮を剥がすため、か?」
「先生? そんな意地悪なこと言ったら駄目ですよ? 他人の好意は素直に受けとるものだって、先生が言ったんじゃないですか」
「……記憶にないな。自分を大事にしろとは言ったが」
「ほら、こんなにたくさん買ってきました」
月島は、袋の中身をアピールする。
電子レンジですぐ食べられる白米、白菜、ネギ、しょうが、生卵、といった食材に、市販の風邪薬やスポーツ飲料水まで入っている。
「先生、私がいたら邪魔ですか?」
「邪魔ではないが、とても困るな」
「そんな意地悪していると、治る風邪も治らなくなりますよ」
月島は、私の脇を通って、部屋に入ってしまう。
「おい月島――」「――きれいな部屋ですね。先生の身体と一緒です」
彼女はキッチンに買い物袋を置きながら、部屋を観察していた。
「セクハラで訴えるぞ」
ゆっくりと追いつき、軽口で答える。だがそれだけで満身創痍(まんしんそうい)だった。もう肩で呼吸している。
「先生大丈夫ですか?」
「……何とか生きてはいる」
「手伝います」
月島は、私の肩を担ぎ、布団まで運ぶ。
「そろそろ素直になってください。さすがの私だって病気のときは襲いません」
そこに私を寝かしつけると、額に手を当ててきた。
「熱いですね。冷やさないと」
彼女はキッチンへ帰っていく。水音が聞こえてきたかと思うと、湿ったタオルを手に、私のところへ戻ってきた。
冷たいタオルが、おでこに乗せられる。ひんやりと気持ちのいい感覚が広がってきた。
「先生って家庭的なところがあるんですね」
月島は、いつの間にかエプロンを身につけている。その裾を握って、ひらひらとアピールしてきた。
「冷蔵庫にマグネットで張りつけてあったんですが、これって先生が使っているものですよね」
「そうだ」
「新婚さんみたい。こうやって狭いアパートで、二人っきりで、一つのものを共有するのって」
頬を緩ませながら、エプロンを口元に当て、「先生の匂いがします」とつぶやいた。
「月島、気持ちはありがたいんだが――」
「――帰りません。私が帰ったら、困るのは先生ですから」
「……しかしだな」
「怖がらなくても大丈夫です。花本先生が来るから、先生に変なことはできません」
「…………知ってたのか」
「はい。付き合いたての二人ですから。行動パターンくらい分かります」
私は月島を警戒していた。
化けの皮を剥がしてやる。でも今日は何もしない。花本先生が来るから。
この三つの命題が、ぎこちないまま噛みあっていない。花本先生が来るからこそ、今日は何かをして、私の化けの皮を剥がす――そう考えるのが自然だからだ。
「どうですか? 何もできない気持ち。今日は子どもですね。その代わり、私が大人。素直になって甘えてもいいですよ?」
「……残念ながら、月島の言う通りだな」
月島の頬に、えくぼが浮かぶ。
「おかゆ作ってきます」
跳ねるように立ち上がると、月島は台所へと向かっていった。
これからどんなことが起きようとも、隙を見せてはならない。頭のいい月島のことだ。考えがあってここに来ているはず。だが何も起きなければ、いくら月島でも、どうにもならないはずだ。
そう決意すると、またもや意識が遠のいていった。
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