5.3
「やれやれ、今日は災難だな――へっくしょん」
鼻水をすすりながら、嘆息する。
苫田井高校の職員専用駐車場。時刻は放課後を迎えたばかり。車のなかでシートを倒し、私は横になっていた。
――国立と花本ができてるって――
あのHRがきっかけで、そんな話が一瞬で広まってしまっていった。生徒たちは携帯を駆使し、口コミを利用して、恐るべき速度で情報を共有してしまう。
そして現在、学校はその話題で持ち切りだ。いつどこで何をしていても「花本先生とはどうなんですか?」と、質問攻めに遭ってしまう。まるで授業にならなかった。職員室なら安全かと思いきや、生徒が押しかけてきて、ここでも仕事にならない。
自分一人ならまだともかく、他の先生方の迷惑になってはよくない。私は、生徒たちの盲点である駐車場の車へと避難していた。
「今日の部活動は難しいな」
身体を横にしながら、独り言をこぼす。
これからインハイに向けて、一日たりとも無駄にはできないというのに、情けない話だ。それに柴田や武田とのこともある。彼らと面談をしなければならないのに。それは担任であり、生活指導主任であり、部活の顧問でもある、私の仕事だ。
ズボンのポケットから携帯を取り出す。
『できれば、佐々岡に伝言をお願いします。今日の部活には参加できないと。あと柴田と武田を目撃したら、国立が話をしたがっていたと伝えてください。多崎教頭にも、本日中の面談は難しくなってしまったと、お願いします』
そして花本先生の携帯へ、メッセージを入力する。
すると手にした携帯が、メッセージの着信を伝えてきた。
『分かりました。いろんな意味でゆっくりなさってください』
そこに表示されたのは、花本先生からの返信だった。
頬を緩ませながら、まじまじとメッセージを見つめる。もう今日は帰ってしまって、医者に診てもらおう。携帯を助手席のボストンバックに放り投げ、ポケットからキーを取り出し、車のイグニッションに点火した。
すると、バックのうえで、またもや携帯が振動した。
花本先生だろうかと画面を見るが、そこに表示されているのは知らない連絡先。エンジンを止めて、メッセージを確認する。
『月島です。国立先生、大丈夫ですか?』
簡潔に、そう訊ねていた。
『大丈夫だ。ありがとう。どうして私の連絡先を知っているんだ?』
携帯端末に文字を入力し、返信をする。
すぐに返事がこない。そのままバッグのうえに置くと、すぐに携帯が振動した。
『先生ごめんなさい』
『どうして謝るんだ?』
『勝手に携帯を見ました。あの雨の日です』
『見てしまったものは仕方ないが、今後はそういうことをしないほうがいい。親しきなかにも礼儀あり。夫婦でもプライベートには干渉しないものだ』
『ごめんなさい』
『分かってくれたなら、もう謝らなくていい。それに聞いてくれれば、教えただろうしな』
またもや、月島からの返事が渋る。
携帯の画面を、ぼんやり見ながら待ってみる。
『私が聞いたら、本当に教えてくれましたか?』
『ああ、隠すことではない』
私の指先は、スムーズに文字入力を行う。自分が思うよりも、ずっと簡単に動いている。自分の意思とは関係なく、別の何かが動かしているような感覚だった。
こんな気持ちは何年ぶりだろうか。大学生の頃は、よくこうやってメッセージのやりとりをしていて、好きな子からの返事が、待ち遠しかったものだ。
『だったら聞けばよかった』
月島が耳元でささやいているようだった。
『そういえば、月島の体調はどうなんだ? 一週間、学校に来なかったが』
『先週の遠征は、花本先生が一緒だったんですか?』
月島は話題を合わせてはこなかった。
『そうだ』
その後のことがあるから、あまり踏み込んだことも言えない。つい素っ気ない返事になってしまう。
月島からの返事は、しばらく来なかった。文体が冷たいから、気分を害してしまったのだろうかと心配をしてしまう。
『そういえば月島は、こんな風にメールのやりとりをするのか? 文体が大人しいんだな。女子はもっと工夫を凝らしているものだとイメージしていた』
月島の返事がこないうちに、もう一つメッセージを送る。
『先生はこっちのほうが好きだと思いました。友達のようにしますか?』
すぐにリアクションがあった。
気を遣ってくれているらしい。普段であれば、こういった携帯でのメッセージのやりとりは面倒に感じてしまうが、こうして手持ち無沙汰な状況にあると、たあいのないことが楽しい。
「先生、どっちがいいですか?」
いきなり、くぐもった月島の声が、聞こえてきた。
驚いて上半身を起こすと、車の外に、月島が立っている。
「よくここが分かったな」
ウィンドウをおろしながら、彼女に話しかける。
さっきまで緩んでいた表情を見られたのではないだろうか。恥ずかしい気持ちになり、口元を手で隠した。
「吹奏楽部は行かないのか?」
「門田さんがいないので、今日はお休みにします」
「いない?」
「先生のことを一生懸命言いふらしてました」
「なるほどな……」
「入れてください」
彼女は反対側に回ると、自分でドアを開けて、助手席に乗り込んできた。ボストンバックを膝のうえに抱える。
「月島――」「――先生の家に連れていってください」
「どうして私の家――」「――人目を気にせず、私を抱けます」
「まあ待て、まだ仕事が――」「――学校じゃ仕事にならないから、ここにいるんじゃないですか?」
「お前は頭がよすぎる……」
月島は、えくぼを作った。
「家まで送ってやってもいいが、その前に少しだけ、話をしないか?」
ウィンドウをおろしながら、シートのリクライニングを元に戻す。
「私のこと、買ってくれる気になりましたか?」
「頭のよさなら、もう高く買ってるつもりだが」
「頭じゃなくて身体です。迷っているのならお試しでも構いません」
「屋上でも言ったが、安売りは感心しない。門田がびっくりしていたぞ」
門田という言葉に、月島は息を呑む。
その発言に意図があったのか、それとも偶然だったのか。慎重に判断するように、じっと私を見つめる。
「売春は、お前たちの作り話だと、教えてくれた」
「…………」
月島はすぐに尻尾を出さない。この慎重さが、彼女の知性を物語っている。
「佐々岡とも話をしてな。屋上で月島から、けんもほろろに追い返されたと嘆いていたぞ」
「……そうですか。もう隠さなくていいですね」
月島は視線を、外の景色へと向けた。
「ずいぶんと手の込んだ悪戯をしてくれたが、一体、どういうつもりだったんだ?」
「門田さんから聞いたんじゃないんですか?」
「門田では要を得ない。意図を確かめるには、本人に聞くのが一番だ」
月島は無表情のまま、沈黙する。
「先生の化けの皮を、剥がしたかったんです」
にやぁ。
彼女の口元は、不自然なかたちに歪んでいった。ずっと担任をしてきたが、こんな顔は見たことがない。それは高校生にしては、あまりにも悪意を滲ませていた。
「一年生のとき、先生を見て思ったんです。この人は、とんでもない嘘つきだって」
「嘘つき?」
「はい。私たちの前で建前ばっかりしゃべっていて、大切なことは何一つ教えてくれない。しかも自分が嘘つきだっていう自覚すらないほどの大嘘つきだって。いい人も悪い人もたくさん見てきたけど、先生みたいな人は初めてでした。だから思ったんです。先生が、自分の嘘に気づいたとき、どんな顔をするんだろうかって。すごいショックを受けるんじゃないかって。そう考えただけで、ぞくぞくしました」
「月島の言っていることがよく分からないが、いい気持ちになれないのは、間違いないな」
「一番面白いのは、生徒とのスキャンダル。私を抱いてしまえば、きっとボロが出る。そう思いました」
「なるほどな。道理でわざわざ売春という噂話にするわけだ」
「はい。不自然でも何でも、先生が手を出してしまえば、私の勝ちでしたから」
「まったく、ひどい生徒を持ったものだ」
大きく鼻を鳴らし、外の景色を見つめた。
「中学の頃なら、大抵の男子を騙せたのに、先生はまったく構ってくれない。屋上にも来てくれない。次はどうしようかって、この一週間は悩みっぱなしでした」
「それはすまなかったな」
「先生、怒らないんですか? 私はひどい生徒ですよ? 丁寧に指導してください」
「こう見えて忙しいんだ。月島みたいに手のかからない生徒を、指導をしている暇はない」
そう言い終えた途端、月島はアームレストに左手を乗せながら、私に迫ってきた。
「国立先生、私は諦めていませんから」
「もう門田を巻き込んでやるな。あれも苦労している」
そして右手で、シャツの袖を引っ張る。
「またお話ししてくださいね」
ぱっと袖口を解放すると、飛び出すように車を降りていった。
「他人のものは、大事に扱って欲しいな」
助手席の足元に転がっているボストンバックを拾いあげながら、彼女の後姿を見送った。
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