2.4

「今日の授業はこれまで」

 私は2年2組での数学の授業を終えた。長かった午前中の授業もこれでようやく終了し、これで学校はお昼休みを迎えることができる。

「先生、花本先生とはどうなんですか?」

 数学の教科書を閉じて、黒板を掃除していると、2組の女子生徒が数名、教卓に集まってきた。

「絶対、花本先生のこと好きですよね。アプローチしてるんですか?」

「企業秘密だ」

「えー、怪しー!」

 彼女らは、私の返事をきっかけに、がやがやと騒ぎ始める。

 こうやって授業以外でも、生徒と交流することが大事だったりする。お互いにどんな人間か知ることで信頼関係を育むことができる。それは「こいつの言うことなら聞いてやろうか」という授業の態度にも直結していて、おろそかにはできない。

「すまないな、今日は仕事があって、ここで話はできないんだ」

 黒板の清掃を終えると、私を呼び止める彼女らを置いて、2組をあとにする。

 ――ここからなら屋上は近いな。

 私は教室のすぐ隣に作られている、中央階段へと向かった。

 2年2組の教室は、校舎の二階、ちょうど中央に位置している。校舎の北部が1組、南部が3組となっている。階段もそれぞれ北、中央、南と対応するように設置されてはいるのだが、北と南は三階で行き止まりになっており、屋上へは続いていない。だから屋上に行くには、どうしてもこの中央階段を利用する必要がある。

「あ、国立先生がいるよ!」

 すると今度は3組から出てきた女子生徒が、私を捕まえてしまう。

 2組が屋上に近いとはいえ、それがそのまま屋上への通いやすさを意味するわけではない。お昼休みともなれば、授業から解放された生徒たちが、あたりをうろついている。声をかけられれば、その場で足止めされることは避けられない。

「今日はどこの教室でお昼を食べるの?」

「今日は食べられないんだ。仕事があってな」

 手をひらひらとふって、彼女を追い払うような仕草をする。

「最近冷たいー。今日は3組で遊んでいってよー」

「どこの客引きだ。早く昼飯を食べないと、午後の授業に間に合わないぞ」

「それは先生だって一緒でしょー?」

 どうしたものか。一向に引きさがってくれない。屋上に向かう姿を、あまり目撃されても困るのだが。

「国立先生が困っておいでですよ」

 階段の手前で立ち往生していると、3組から仲裁する声が出てきた。

 3組の担任で、物理の科目を教えている香川先生が近づいてくる。やや猫背の姿勢で、小太りな体型を持てあましているのか、自分の腹や手首をせわしなく触っている。香川先生が会話に入ってきた途端、その女子生徒は3組の教室へと逃げていった。

「すみません、いつもお騒がせしてしまって」

「いえ、それが国立先生の流儀ですから。仕方ありません」

 それでは、と香川先生は一階へと降りていった。

 別れの挨拶をすませた私は、そのまま屋上を目指す。二階から三階への道のりには2年生がおらず、何気ない顔で素通りすることができた。

 人気ひとけのない三階から屋上へのステップに進むと、錆びついた扉が見えてきた。

 ――もうすぐだ。

 自然と足どりは速くなる。

 するといきなり扉のほうから、ぎぃ、と音を立てて私を出迎えてきた。その奥から男子生徒が姿を現す。屋上からの逆光によって、その顔はよく分からない。手をかざして逆光を遮り、薄目を開けていると、

「あ、先生」

 向こうから呼びかけてきた。思わず声が出たという感じだった。その聞き覚えのある声に、

「佐々岡か?」

 そう声をかける。

「どうしてこんなところにいるんだ?」

「……気分転換、です」

 沈んだ声だった。気分が転換されているとは言えない。心配になって話をふろうとするが、彼はそそくさと階段を降りていってしまった。佐々岡のことも気になるが、

 ――とりあえず、今は。

 屋上を確認することが先決だ。

 ようやく屋上への入口に到着すると、それをゆっくりと押した。錆びついた蝶番ちょうつがいが、ぎぃ、と恥ずかしそうにつぶやく。

 扉の向こうには、一人の女子生徒が、中央に佇んでいる姿があった。校舎の足元から吹き上がってくる風に、その黒髪を任せている。十メートル四方のだだっ広い空間を、ぐるりと覆う金網のフェンス。そこの隙間から景色を眺めたまま動かない。

 数歩、足を踏み入れたところで、ばたん、と扉が勢いよく閉まった。

 彼女は、その音に気づいて、こちらを振り向く。

「国立先生、こんにちは」

 不意の訪問者を、彼女は驚きもせずに出迎えた。

「どうしてここにいるんですか?」

「……気分転換だ」

 とっさに佐々岡の台詞を使った。一歩、二歩と彼女に近づいていく。

 月島は、その動きをじっくり観察したかと思うと、所在なさそうに視線を泳がせる。

「月島はどうしてここにいるんだ。門田と一緒じゃないんだな」

「私も気分転換です」

 そう言葉を添える彼女の視線は、動かないまま。

「もし一人がいいんだったら、先生は帰るが」

「いえ、大丈夫です。そんなことはないですから」

「ここにはよく来るのか?」

「はい」

 月島の返事を聞きながら、何気なく周囲を見回してみる。

 屋上の壁面には剥げかけた塗装が引っかかり、金網のフェンスのある突き当りまで移動すると、ほこりとも草木とも区別できないような何かが吹き溜まっていた。それ以外には何もない。フェンスに人差し指を引っかけると、関節に赤さびが付着してくる。

「月島、勉強はどうだ」

 フェンス越しの風景を眺めながら話しかける。

「普通です」

 月島と二人だけで話をするのは、これが最初かもしれない。学校ではいつもおしゃべりな門田が側にしたし、家庭訪問もお母さんが一緒だった。

「部活のほうはどうだ?」

「いつもと一緒です」

 ――困ったな。

 さっきから会話が続かない。かゆくもない後頭部をかいてしまう。

「あの、先生」

 ようやく月島のほうから口を開いてくれた。

「すみません」

「ん? どうして謝るんだ?」

「私、話とか上手じゃないから。先生に気を遣わせているなって」

「いやいや、それは違う」

 慌てて弁明するように、両手を左右にふる。

「正直に言うと、どんな話を月島としていいのか分からなくてな。こうやって対面するのも初めてだし、その、こちらこそすまん」

 私は、頭を下がた。

「やっぱり先生は、面白い人ですね」

 すると月島の口から、わずかながら笑い声が聞こえた。さっきから吹きつけてくる強風のせいで、その髪が口元を覆っていて判断できないが、たしかに笑ったような気がする。

「私も初めてだから。緊張しています」

「そうか。だったらお互い様だったな」

 口角をあげてみせたら、わずかながら月島は反応した。

「国立先生、『校舎の空白』っていう小説、読んだことあります?」

「読んだことはないが、内容なら知っている」

 女子の間で流行った小説だったと思う。映画化されて話題になっていたはずだ。

 たしか主人公が男性教員で、学校を舞台に、次々と猟奇的な犯罪を行うというストーリー。いわゆるピカレスク小説というジャンルだ。その主人公と私の境遇が、あまりにも似ていたものだから、女子生徒に手を出しているだの、裏で罪を犯しているだの、散々からかわれた。

「私、あの話が嫌いなんです」

「ほう」

「あれって、先生が悪いことをするから面白いんです。先生は悪いことをしちゃいけないっていうルールがあって、それを守るような人格じゃないと駄目だっていう、常識を逆手にとっている。そうでないと、ただ変な人が変なことをしたってだけの本です」

「そうかもしれないな」

「でも、先生だって人間です。人間は悪いことをします。だから先生も悪いことをします」

「もちろんそうだ。誰だって間違えることはある」

「だから、あれを楽しんでいる人は、ずるいんです」

「ずるい?」

 想定していなかった言葉に、つい聞き返してしまう。小説が非現実的だとか、キャラクターに感情移入できないとか。そういった理由で嫌いなのだと予想していたのだが。

「あれを読んでいる人は、先生は正しくあるべきだって思っています。それを当然だと思っています。それが破られるフィクションを楽しむような人に限って、現実に悪いことをする先生がいたら言いがかりをつけます」

「月島は小説云々というよりも、作品を面白がった読者が気に入らないんだな」

 はい、と月島は顔をあげて視線を合わせてきた。

「先生はフィクションではありません。あの作品を読むくらいなら、現実の先生を楽しんだほうが、ずるくありません。国立先生はそう思いませんか?」

「現実の先生を楽しむ、っていうのは面白い言い方だが、さすがにまずいだろうな」

「どうしてですか?」

 さも不思議だと言わんばかりに、月島は首を傾げる。

「現実の先生は、子どもを教育するのが仕事だ。あんまり自由奔放な人間だったら、悪い影響を与えてしまう。それに毎日の仕事だって地味だ。使命感がなくては、とても続けられる内容ではない。あと薄給だしな。でも私は、この仕事を誇りに思っているし、間違った姿を見せたくはない。だから小説みたいなことはしない」

「高校生は子どもですか?」

「子どもだ。小説やドラマに出てくるような高校生はいない」

「…………」

 月島は返事をしなかった。

 彼女の考え方に共感を示さなかったのが、まずかったのかもしれない。

「ところで先生、いいんですか? こんな話に付き合ってて」

 すると彼女は、おもむろに近づいてきた。ばりばりと足元の塗装が破壊される。

「私に用事があったんじゃないですか? 気分転換なんて嘘つかなくてもいいですよ」

 一瞬、呼吸を忘れる。

 すぐに脇から、一筋の汗が、したたり落ちた。

「私が売春しているっていう話を聞いて、ここに来たんじゃないんですか?」

「……月島はそんな冗談を言うのか」

「恥ずかしがらなくてもいいです。最初はみんなそうやって言い訳しますから。いくらにしますか?」

「その口ぶりは、まるで月島が売春をしているみたいに聞こえるな」

「国立先生ならサービスします」

 すっかり側まで近寄っていた月島は私を見上げる。かたちの整った顔に、少しだけ鋭い、ガラス細工のような瞳が埋め込まれていて、思わず息を呑んだ。

 ようやく門田の言っていたことが実感として込みあげてくる。その風貌や顔立ちは、制服を着ていなければ高校生には見えない。その大きな胸も、目のやり場に困るくらいだ。

「そういうことは、たとえ冗談でも言うものじゃない」

「冗談じゃありません。本気です」

「本気なら、なおさらだ」

「なぜですか」

「自分を大切にしていないからだ。自分の身体を大事にすることは、めぐりめぐって、みんなを大事にすることになる。面白半分で言っていい台詞じゃない」

「そうですか」

 真剣な顔で、月島を見つめるが、彼女の顔からは感情を読みとれない。

「先生、眉間の皺が怖いです」

「眉間?」

 そう言われて触れてみると、たしかに険しい襞の刻まれた皮膚があった。両眉を押しあげ、両手で頬を左右に引っ張る。どうもさっきから月島のペースに呑まれてしまっている。

「月島は、本当はおしゃべりなんだな」

「おしゃべりな私は、嫌いですか?」

「あと意地悪な性格をしている」

「意地悪な私は、嫌いですか?」

「嫌いとか、そういう話ではない」

「なら好きですか?」

 月島は、力のこもった視線で、私をじっと見つめている。

 困った私は、腕時計で時刻を確認する。二本の針が12:30を示していた。

「そろそろ午後の授業の準備をしなければならない。悪いが続きはまたの機会に」

 彼女の視線を断ち切り、屋上の出口に向かい始める。

「国立先生、またお話してください、絶対に約束ですよ」

「それは、これに懲りずに、っていう意味なのか」

「先生も意地悪ですね」

 出口の扉を閉める間際、月島の声が聞こえてきた。

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