第8話 先生は、やっぱり嘘が上手ですね

「みんな、おはよう」

 2年1組の早朝HRで、私は挨拶をした。

 クラス中の生徒が、あっけにとられている。何が起きたのか分からない、そんな表情だ。そこには佐々岡、柴田、武田、門田、という懐かしい顔ぶれも並んでいる。もちろん月島も。

「驚かせてしまってすまない。実はな、今日から学校に復帰することになったんだ。私がいない間、香川先生に担任をしてもらっていたが、また元通りだ。よろしくお願いする」

 誰も、何も、言わない。

 いるはずのない幽霊を見るような顔で、私を見つめるばかり。

「ちゃんとみんなには説明しておこうと思う。私が学校を休んだ理由は、知っての通り、月島とのことがあったからだ。私の自宅で彼女の胸を触った」

 数人の生徒が動揺を示す。

 まさか自分でハラスメントを認めるとは思わなかったのだろう。

「多崎先生から事実無根だと言われたかもしれないが、触ったことは事実だ。だが、それは性的な目的を持ってのことではない。彼女は気を遣ってお見舞いに来てくれたんだ。そのとき作ってくれたおかゆを食べさせてもらっていたのだが、月島のシャツにこぼれたおかゆを、つい手でとろうとしてして胸に触れたんだ」

 生徒たちは固唾を呑んでいる。

 一体、その話は信じるに値するものなのか。月島がここにいるのに、堂々としゃべってしまって大丈夫なのか、と。

「月島とのことが問題になって、私は怖くなったんだ。ここで教員として頑張ってきたつもりだが、お前たちに信じてもらえないんじゃないかって。私のやってきたことは何だったのかって。その現実に向き合うのが嫌で、ショックが大きくて、ずっと引きこもっていた。そんなことをすれば、ああやっぱり、と考えられても当然だ。でも今はとても後悔している。最初から説明すればよかったんだ。起きたことを、ただ正直に」

 数人の生徒が、目を伏せた。

 私のことを避けていたという負い目が、そうさせたのかもしれない。

「お前たちが悪いんじゃない。私の考え方に問題があったんだ。このクラスで私は、ずっと先生として振る舞ってきた。そうすることが正しいと思っていたからだ。でも度がすぎて、お前たちを生徒としてしか見れてなかった気がしている。自分とお前たちとの役割ばかりに目がいって、本当の中身を見ようとしなかった。それは仲良くやっているように見えて、その実、距離をとることにつながっていた。だからこの問題が起きたとき、不信感もすぐに募ってしまったんだ。私が弱いばっかりにやってしまった失敗だ。でも本当は先生という皮を、脱ぐ勇気がなかっただけかもしれない」

 わずかに視線を動かし、月島を見る。

 彼女は、あの無表情な顔で、私を凝視していた。

「でもこれからは逃げない。これから復帰に向けて、できるだけのことをしようと思う。私のことを不審に感じているのなら、何でも聞いてくれ。包み隠さず説明する。私の授業なんか聞きたくない、顔も見たくないという人がいるのなら、無理強いはしない。クラスの変更ができるかどうか、教頭先生にかけあってみる」

 生徒たちは水を打ったように静まり返ったまま。

「私は、また2年1組のみんなと一緒に勉強したい。どうか、よろしくお願いします」

 私は、ゆっくりと深く、一礼をした。

 頭上を静寂が流れる。物音一つない。

 ――やはり虫のいい話だったな。

 私が先生と生徒という関係にこだわり、それで信頼関係を構築できていたと思い込んでいたのだから。今さら、自分の都合で戻りたいなどと言われても困るだけだろう。

 私がゆっくりと顔をあげ、教室を出ようとした、そのときだった。

 ぱち、ぱち、ぱち。

 拍手の音が聞こえてくる。その方向を見ると、佐々岡が立ち上がって手を叩いていた。あの、ぶっきらぼうで、アンニュイな表情のまま。ただひたすら手を叩いている。

「佐々岡、ありがとう」

 込みあげてくる何かを堪えながら、感謝の言葉を絞り出した。

 ぱちぱちぱちぱち。

 すると今度は、柴田と武田が立ち上がり、手を叩いた。いつものように調子のいい顔で、力強く手を動かしてくれている。次第に拍手は広がっていき、気づいてみればクラスの人間全員が、私に拍手で応えていた。

「先生」

 佐々岡が、手を叩く音に負けない、大きな声で呼びかけてくる。

「俺ら、インハイで負けて悔しかったです。まだまだ練習が足りないって分かりました。だからまた、先生に教えて欲しいです」

「……そうか」

 私はそれっきり、何も言えなくなってしまった。ただ袖口で顔を拭いながら、その場に立ち尽くしていた。滲んだ視界の端には、拍手をすることなく、私をじっと見つめている月島の姿があった。

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