6.2

「国立先生、どうぞ」

 校長室の皮張りソファに腰をおろしながら、多崎教頭は席を勧めてくる。

「多崎先生、先生方はどうされたのでしょうか。雰囲気がおかしいというか、私を避けているというか、まるで別世界に放り投げられたような気分です」

「先生方のお気持ちもいろいろでしょう。快く思われない先生もいれば、同情的な先生もおられます」

「……私が、何かしたのですか?」

 多崎教頭は両膝に手を置き、ソファに背中を預ける。

「まずは事実確認からしましょう。私と国立先生で、認識の齟齬そごがあるかもしれません」

「……そのほうがよさそう、ですね」

 私は両手を組み、両足のあいだに置く。

「こちらで把握しているのは、月島霧子から、先生に胸を触られたという訴えがあったことです。それは先生の自宅に連れ込まれたときだということでした。男女としての関係を迫られたとも」

 唖然として言葉もでない。

 事実無根の最たるものであり、私から触ったことも、連れ込んだこともないし、ましてや男女の関係など。

「多崎先生、それはすべて間違っています」

 言葉を失ったままでは弁解できない。すぐに私は事実関係を訂正する。

「月島のほうから自宅に押しかけてきて、看病をされて、偶然、胸に触れてしまっただけです。そこにやましい関係はありません」

「なるほど」

 多崎教頭はどこにも焦点を合わせないまま、返事をする。

「もちろん国立先生は嘘をおっしゃらない。私はそう思っています」

「じ、じゃあ」

「ただ、月島霧子のほうが影響力を持ってしまった、とでも言えばいいでしょうか。とても真面目で優秀な生徒さんの訴えだったので、信憑性が高かった。もちろん国立先生も誠実で嘘などつかない。二人を知っている人間は、判じかねているというのが本当のところでしょう。ただし彼女は、女性で未成年。社会的立場が弱いため、どうしても同情的になりがちです。その結果」

 多崎教頭は言葉を継ぐ。

「国立先生の悪い噂が学校中――いえ、PTAや教育委員会にまで広がってしましました。先生がおられないあいだ、学校全体が対応に追われ、目も当てられない状況が続きました。今も、校長は対応に奔走していますし、私もほとんど学校にいません。不幸中の幸いなのは、まだマスコミ沙汰にならずにすんでいるということです」

 関係者の誰かが、全国的な問題なったときのデメリットを懸念しているからかもしれません。ふぅ、と多崎教頭はため息をこぼした。

「それがようやく下火になってきたがの、昨日今日のことです。それで先生方は疲弊し切っておられるから、国立先生の復帰を、素直に喜べなかった部分もあると思います」

「そうですか……」

 まんまとしてやられた。

 これ以上の感想を抱けない。きっと私は、ひどく情けない顔をしているはずだ。この顔が見たかったんです。そう彼女は言うだろう。

 私は石になったように、しばらく動けなかった。

「私は味方ですから。そこは誤解なさらないでください」

 重苦しい校長室の雰囲気を、多崎教頭がなだめようとする。

「それは多崎先生が、卒業生と――いえ、すみません……。こんなときに私はなんて失礼なことを……」

「気にしないでいいですよ。本当のことですから」

 多崎教頭は、片方の眉をあげながら、笑顔で応える。

「ここだけの話ですが、以前にも月島霧子は、教員とトラブルを起こしています。先生はご存じないでしょうが、国語の千早黒樹先生――花本先生の前任ですが――が、まさにそうだったんです」

「千早黒木、先生」

 思い出した。

 何度も夢に出てきた、あの男性だ。一緒に仕事をしてきたはずなのに、今の今までどういうわけかすっかり記憶から抜け落ちていた。

「飲み会にも参加されないし、口数の少ない、内気で優しい先生でした。大事になる前に、千早先生のほうから依願退職されたので、詳細は分かりません。ただ月島霧子のことで困っていると、個人的に相談を受けたことがありました」

「一体、どんな相談を受けたんですか……?」

「彼女に会うのが怖いとか何とか……とにかく直視できないと。事情を聞いてはみたのですが、詳しく教えてはもらえませんでした。ですがおそらく、同種のトラブルがあったのではないかと考えています」

「なるほど……」

 多崎先生はジャケットの内ポケットに手を当てながら、ソファから上半身を起こす。

「単刀直入に申し上げます。国立先生にはこれからも苫田井高校を支えて欲しいと思っています。ですが現状のままでは無理です。とるべき対応はおそらく二種類あると思います」

 彼はポケットから手を離し、人差し指を立てる。

「一つは、月島霧子と徹底的に主張をぶつけ合うことです。これは相当の覚悟が求められますし、たとえ勝利できても禍根は残ってしまう。彼女は肩身の狭い思いを強いられるかもしれません」

 そして次に、中指を立てた。

「もう一つは、このまま有給をとるなり休職するなりして、ほとぼりが冷めるのを待つことです。ひとまず学校から離れて解決を待ってみる。ここは私立ですから、先生が他校への異動するのも簡単ではありませんし。ただし、それは月島霧子へのいやがらせを、暗に認めているとも受けとられかねません」

 まるで小説や映画を見ているような気分だった。

 まさか自分が窮地に追いやられ、進退窮まるようなことがあろうとは。しかも自分には関係がないと思っていた、女子生徒との恋愛絡みのトラブル。さっきからため息しか出てこない。

「私としては後者の対応をとって欲しいと思っています。性急に解決を求めるよりは、よほど――」

「――あの、多崎先生」

 彼の言葉を遮る。

「すみません、まだ現実味がないというか、自分が生徒からそう思われていると実感できないんです。自惚れかもしれませんが、それなりに生徒とは関係を作ってきたつもりです。いくら友達である月島の言葉だったとしても、そう簡単に信じてしまうのだろうかと」

「……そうですね。お気持ちはご尤もです」

 多崎教頭は、ぼさぼさの頭をかきながら、目を閉じる。

「でしたら今日は、国立先生の思うようにすごしてみてください。私からの伝聞では納得できないでしょうから。それに今後についても、しっかり考えて欲しいので」

「はい、ありがとうございます」

 私はゆっくりとソファから立ち上がった。

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