8.4

 すっかり意気消沈した彼女は、素直に自宅に帰っていた。

「……ただいま」

 玄関前で、誰に言うでもなく、帰宅の挨拶を行う。

 彼女の母親は、いつもこの時間はいない。帰ってくるのは深夜になってからだ。幼い頃に父親と離婚して、ずっと片親で育てられてきた。一人には慣れている。

 いつものように家に入ろうと、ドアノブに鍵を入れて回転させるが、いつもとは違って、何の感触も返ってこなかった。

 鍵を引き抜き、ドアノブをひねると、するりと扉は開いた。

 ――鍵かけ忘れたかな。

 普段の生活習慣に従ったまでだから、鍵をかけたかどうかの記憶がない。記憶はあるのだろうが、それを思い出すことができないし、その労力をかける意味も感じられない。

 力なく玄関に入り、内側から施錠する。

「霧ちゃん、おかえり。今日は遅かったのね」

 すると客間のほうから、母親が顔をのぞかせてきた。

「お母さん、帰ってたの?」

「そうなの。今日は国立先生がいらっしゃったから」

「……え、なんで」

「大事な話をさせて欲しいからって。ついさっきまで霧ちゃんを待ってたんだけど、時間も時間だからって帰ったばっかりなの」

 母親は声のキーが高い。化粧はばっちりだし、服だって気合いが入っている。

 国立一弥の訪問が嬉しかったのだろう。年齢もそう離れていないし、彼が独身であることは周知の事実。現代風のかっこよさはないが、年相応の、落ち着いた美男であることは、月島霧子も認めるところだ。

 だがこれはどういうことだ。母親は彼の休職も、その理由も知っているはずなのに。PTA会議にも顔を出してみたり、月島霧子から事情を聞いたり、話を聞いて憤ったり、と常に娘の味方でいてくれたはず。なのに、この態度の変わりようは何なのか。喉に小骨が引っかかっているような気分だった。

「どうして、私に教えてくれなかったの……」

「ごめんごめん。急な話だったから、連絡しそびれちゃって」

 何ということか。

 国立一弥の自宅になど行かず、そのまま直帰していれば、簡単に会うことができたのに。月島は内心、歯噛みした。

「で、霧ちゃん。今からお母さんとお話、いい?」

 すると母親は、声のトーンを落とした。

 いつもそうだ。

 真面目な話をするときと、そうでないときとの落差が激しい。そう感じながら彼女は「いいよ」と客間に入った。

 ――先生の匂いがする。

 まだ人の残り香が漂う客間。たしかに国立一弥がいたことが伝わってきた。

 すぐに中央の和風テーブルに腰をおろすと、それに月島の母親も続く。

「国立先生ね、ずっと私に電話していたの。あの事件のことを説明させて欲しいからって。だけど、そんな気になるはずがないでしょ? いつも断っていたんんだけど、つい昨日、門田さんのお母さんと話す機会があって。月島さんの誤解だから先生に会ってあげてって」

 なるほど。門田杏の母親が、母親を間接的に手を回したからか。

「少し電話で話をして、たしかに信用できるって、すぐに分かって。それでちゃんとした話をしたいからって、先生がいらっしゃったの」

「……ふうん」

 月島霧子は、手のつけられていない来客用の茶菓子に手を伸ばすと、それを口に入れた。

「霧ちゃん、あんまりお母さんに嘘をつかないでちょうだいね」

 さらに低いトーンで母親は、釘を刺してきた。

 月島の口に含んだ茶菓子から、甘味が消え失せる。喉から水分が奪われ、言葉が干上がる。

 きっと国立一弥は、自分とのことを暴露しにきたんだ。本当は、私のほうから言い寄ったんだった。そうして私を貶めて、被害者と加害者の関係を反転させるつもりだ。1組の生徒だけではなく母親も味方につけようと。

「お母さん、国立先生が何を言ったのか知らないけれど、そんなの嘘だから」

「嘘?」

「そう、嘘だよ」

 月島霧子の母親は、薄っすらと目を開けて、娘を見る。

 発言の真意を、吟味しているようだった。

「国立先生の話だと、霧ちゃんのおっぱいを触っちゃったって言ってたわよ。だからそれで霧ちゃんがびっくりして友達にしゃべって、それが学校に広まったんだって。本当は違うの?」

「……え、そんなこと、言ったの……?」

「霧ちゃんから、先生のお宅にお邪魔したんでしょう? 作ってあげたおかゆがこぼれて、それを拭こうとしたときのはずみだって」

 おかしい。重要な部分が説明されていない。

 本当は、自分のほうから服を脱いで、それに触れさせようとしたはずだ。それを「はずみ」という一言で片づけている。

 学校での説明と同じだ。本当のことを言っているようで、ごく一部分で嘘をついている。それを指摘しようとすれば、自分が悪者になるように。

「もちろん霧ちゃんのこと愛してるけど、でも国立先生が嘘をついているようには、どうしても見えなくて。ねえ霧ちゃん? 本当のところはどうなの?」

「……ごめん」

 月島霧子の額に、薄っすらと汗がにじみ出る。

「ごめんって、謝るってどういうこと? もしかして霧ちゃんが嘘をついているの?」

「……私、寝るね」

「ちょっと霧ちゃん、まだ話は終わってないのよ?」

 彼女は、ゆらりと立ち上がり、そのまま自室へと消えていった。


 自室に向かいながらも、月島霧子は卒倒しそうだった。

 国立一弥は、じわりじわりと包囲網を狭めている。まず苫田井高校の2年1組を味方につけた。インハイにも出場するようなリーダー格の佐々岡に、吹奏楽部のムードメーカーである門田。この二人が味方になれば、全校生徒を丸め込むのは難しくない。

 それだけではない。母親すらも味方につけてしまった。この事件は、うっかりしていた私が起こしたものへとすり替わってしまっている。だが自分から真相を明かせば、悪者はこちら。そんなことをしてしまえば、これまで彼に行ってきたことも、全部説明しなければならなくなる。

 おそらく復職を認めた、教頭先生や他の先生方も、理解を示しているのだろう。

 ――復讐しているんだ。

 千早先生と話をして、きっとそこで決意したんだ。自分を同じ目に遭わせようと。どこにも居場所のない状態にまで追い詰めて、ゆっくりと観察する気だ。

 ――私も見てみたいな。化けの皮の剥がれた月島の顔――

 最後に訪問したときの言葉が、ありありと蘇ってくる。あのとき先生は宣言をしていたんだ。自分の化けの皮を剥がしてやるって。

 ――どうしよう、何とかしないと。

 もう生徒は味方につけられない。母親も駄目だ。先生も頼れない。

 なら、どうすればいいのか。

 月島霧子は答えを出せないまま、焦燥感に苛まれる一夜をすごした。

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