8.6

「それではHRを始める」

 国立一弥は、教室に入って挨拶をすると、とぼけた顔で始めた。脇に抱えていたプリントを、前から順に配っていく。

「まずは連絡事項からだ。夏休みが終わって、二学期も本格的に始まっている。そろそろ――とは言ってみても、ついこの間まで、引きこもっていた私では説得力がないな」

 くすくすと生徒たちから笑いがこぼれる。

「それに連絡事項といっても、私もついさっき知ったことばかりで驚いている。もう運動会の準備をしなければならないのか……参ったな」

 笑い声は、さらに大きくなった。

「ちょっと助けてくれ。次に1組は何をすればいいんだ? ひとまずは運動会でいいのか?」

 困った様子の彼を見るや、「国立せんせは、ほんと手がかかりますねぇ」と、門田が救いの手を差し伸べる。それからこれまで臨時担任の香川先生と取り組んできたことを、彼女は一から説明した。

「なるほど、助かったぞ、門田。ありがとうな」

「えへへぇ、どういたしまして」

 彼は、自分用のプリントから視線を外して、生徒たちを見回した。

「さて、ちょっと今から、大事な話がある」

 その視線は、一瞬だけ彼女と合った。

「今朝、とても残念な思いをした」

 生徒たちは、引きつったような顔になる。

「具体的なことは言えないが、もうこういったことが起きないと信じている。私が帰ってくることを受け入れた1組なら、そんなことはしていないだろうし、むしろ止めようとしてくれただろうと思っている」

 しぃん、とクラス内は静まり返った。

 さきほどの騒々しくも楽しい雰囲気は、どこにも残っていなかった。

「みんなは覚えているか? 数学の時間に、逆・裏・対偶の話をしただろう。このとき、逆は必ずしも真ならずって説明をした」

 彼はチョークを手に、黒板と向かった。

 かつ、かつ、と勢いよく白線が引かれ、二つの文章が登場した。

『A:このケーキは美味しい』

『B:このケーキは評判だ』

「この例を具体的に考えよう。『AならばB』ということは真だ。ケーキが美味しいならば評判になる。ケーキの味を聞きつけて口コミが広がることがあるからな。だがこの場合、逆は成立しない」

 こんこん、と黒板をノックするように、書いた内容を強調する。

「『BならばA』、つまり評判がいいならばケーキが美味しい、というのは偽になる。評判だからと食べてみたら不味かった、ということはあり得るからだ。人間は『AならばB』を、なぜか『BならばA』とすぐ誤解してしまう。コマーシャルは、この誤謬を利用している。話題になるものはいいものだ、と錯覚させてしまうからな」

 そこまで説明すると、国立一弥は、演台に戻る。

 月島霧子は、彼の癖が変わっていないと感じていた。いつも数学のことを話題にして説教をしたがる。やけに話は回りくどいし、たとえ話はたとえになっていない。

「私が言いたいのは、周囲の人間がどう評価しようとも、それはその人物を表しているものではない、ということだ。そこには論理的ろんりてき誤謬ごびゅうがある」

 教室はずっと静かなまま。

 物音を立てることさえ憚れる雰囲気だった。

「もちろん私も人間だ。すぐに誤謬を犯してしまう。だけどできることなら、間違いたくはない。親しい人にも間違って欲しくない。そう思っているんだ」

 じゃあこれで終わろう、一時間目も頑張ってくれ、と早朝HRを閉じた。

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