3.1
「はい、はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
受話器を、備えつけの電話に戻す。
「これで大丈夫だな」
今度の練習試合でお世話になる相手校の担当に、日程と場所の確認をとり、そしてバス会社にも再度、確認をとったところだった。
ぐっ、と背伸びをしながら、職員室の壁かけ時計を見やると、すでに時刻は21時をすぎていた。すでに室内からは人がいなくなっている。「天気が荒れるので」と先生方は早々に帰られていた。「国立先生も早く帰ってくださいね」という花本先生の言葉に鼻の下を伸ばしていたのは内緒だ。
ふぅ、と息を吐き、机に置いてあった学級ノートに手を伸ばす。
これは生徒との交換日記のようなもので、いつでも自由に書き込めるようになっている。私がそれにコメントを返すことで、やりとりするものだ。2年1組の人数分のノートがあり、クラスメイトの前では言いにくいことも、ここでは遠慮しなくてもいい。
ぱらり、とページをめくる。
『せんせ、そろそろ結婚したほうがいいですよ』
門田のノートには、ここ一週間分の出来事が記されていたが、最後の決め台詞はどのページも同じだった。ただ、最初のページの隅に『月ちゃんの話、どうなりましたか?』と書かれてある。
『余計なお世話だ』
お決まりのコメント返しをしながら、すぐ隣に『心配することはない。いずれ説明する』とつけ加えた。
『最近、部活を休んでて、すみません。すぐに頑張ります』
佐々岡のノートには、このコメントしかなかった。ちょうど屋上ですれ違った日から、部活を休みがちだった。学校には来るものの元気がない。
『いつでも相談にはのるからな。でも無理だけはするな』
返事を記入する。中間試験に追われ、話し相手になれなかったから、明日にでも話をしよう、と考えつつ。
それからほとんどの生徒にコメントを返し、最後に月島のノートに手を伸ばした。
『屋上で待ってます』
そう一言だけ書かれてあるページが、ここ一週間、並んでいた。これはつまり、ずっと月島を待ちぼうけにしたということになる。直接、言ってくれればよかったのに。
『すまない。今さら気づいてしまった。今度こそ行くから』
タイムラグのある謝罪を記し、月島のノートを閉じた。
「そろそろ帰るか」
すっかり冷めてしまっているコーヒーを飲み干すと、カップを給湯室へと運んで洗う。カップを拭いて食器棚に戻して職員室に戻った直後のことだった。
激しい稲光が、窓から飛び込んできた。
あまりの眩しさに両目をつむってしまう。職員室の照明はちかちかと点滅し、わずかながら部屋全体が揺れたような錯覚すら覚える。それにやや遅れて、重たく鈍い衝撃音が、部屋全体にぶつかってきた。すぐさまバケツをひっくり返したような大雨が降り始める。
「一歩及ばず、か」
窓から外を眺めてみたが、視界を確保できない。雨が激しく地面に衝突し、そこから巻きあがる水煙によって、景色が浮かびあがってこない。
デスクに戻って、すぐに帰宅の荷造りを終える。
ボストンバックを肩にかけ、職員室の電気を落とし、扉に鍵をかけ、下駄箱へと向かった。
学校の廊下は、すでに水浸しになっている。おかげで靴下は、一瞬にしてぐっしょりだ。風も強烈で、水滴の交じった暴風が、頬を殴りつけてくる。
「ひどいな」
下駄箱にいても分かる惨状に、あらためて落胆してしまう。
まだ学校校舎内にいるはずなのに。
開放的な設計となっている下駄箱から、大量の雨が飛び込んできていた。靴下だけでなく、もはやスーツやシャツまで泥水まみれ。こんな天候では校庭裏の駐車場まで歩けるはずがない。たとえ無事、車に到着できたとしても、激烈な雨によって視界ゼロのなか、恐る恐る運転して帰ることを強いられてしまう。
守衛さんに事情を伝えて、学校に一泊するか。
花本先生の助言を聞いておけばよかったと思いながら、踵を返そうとした、ちょうどそのときだった。普段は見かけない光景が、目に飛び込んできた。
雨一色にべっとりと塗りつぶされていた校庭の中央。
――あれは。
ぼんやりと人影らしきものが見える。傘はない。ただ力なく、そこにいる。
ここの生徒だろうか。だとしたら、どうしてこんな遅い時間にいるのか。完全下校の時刻は終わっている。先生方も帰宅したはずだ。かといって、部外者や守衛さんが、あんなところにいるとは思えない。この天気なのだ。好き好んで、雨に打たれるような人間がいるとは思えない。
「おーい! どうしたんだー!」
大声で呼びかけてみる。
だがリアクションはない。水のカーテンに遮られ、私の声が届いていないのだろう。
「私の声が聞こえないのかー! そんなところにいたら危ないぞー!」
やはりその人影に変化は見られない。
私は、ボストンバックを床に置いて一呼吸入れる。そして息を止めて、勢いよく飛び出した。その瞬間、まるで木刀で何度も殴られるような衝撃が、頭上から襲ってくる。それでも背中を丸め、頭を低くしながら、件の人影まで到着することができた。はっきりとは分からないが、苫田井高校の制服の色が見える。
「何をしている! 早くく室内に来なさい!」
その人物の耳元で叫んだ。下駄箱に戻ろうと、その人物の手を握る。
――聞こえていますよ、先生――
一瞬のうちに彼女の香りに包まれる。
その場に立ち止まり、背後を振り返った。どうにか顔を確認しようとするが、強烈な雨のせいで、目を開くことができない。
「月島なのか!?」
下を向いたまま、もう一度叫んでみる。
すると私の手を、強く握り返してきた。私もまた力を込めて返事をすると、そのまま下駄箱まで走っていった。
庇への避難を終えて、その顔を確認する。全身びしょ濡れになってはいたが、そこにはたしかに月島の顔があった。
「国立先生、こんばんは」
「こんばんは、ってお前……」
こんな状況でも彼女は変わらない。無表情のまま淡々と話しかけてくる。
「どうして、あんなところにいたんだ、危ないだろう」
「私はどうもしていません」
「……とにかく、これを使え」
ボストンバックからタオルを取り出し、月島に渡す。
彼女は無言で、水滴のしたたる頭髪にかぶせた。ゆっくりとパン生地をこねるように水分を吸わせている。
私はシャツの裾をズボンから引っ張り出して、それを絞ってみた。ぼたぼたと大粒の水滴がこぼれてくる。これはいっそ脱いでしまったほうがいいかもしれない。凍えて動かない指先を酷使しながら、ボタンを外していく。だが身体に張りついた布地は、容易には動かない。脱ぎ捨てようとしても、肩と袖口に引っかかってしまう。
「手伝いますよ」
月島が、私の手首に、そっとその手を置いてきた。
彼女はシャツの襟と袖口を握ると、勢いよく引っ張った。脱皮するかのようにシャツが外れていく。
「ありがとう月島、助かった」
月島のほうを見ながらお礼を述べた。
だが、私は二の句を継げない。
雨によってもたらされた半透明の全身。大きな双丘を覆う半袖のシャツ。そのうえから透ける水色の下着。第三、四ボタンは、その内側からの圧力に耐えている。第一ボタンの外れたシャツの襟が鎖骨にまとわりつく。スカートもまくれ上がり、きわどい位置で太ももに張りついていた。
「……風邪を引くぞ。髪じゃなくて身体を拭きなさい」
ボストンバックに視線を逃がす。そこから、もう一枚のタオルと取り出すと、月島を見ないよう背を向けたまま、それを手渡した。下駄箱に広がる衣擦れの音に、意識を向けないようにする。
「先生は拭かないんですか?」
しばらくすると月島は呼びかけてきた。
躊躇いがちに首をひねると、すでに彼女は服装や髪型の乱れを整えていた。その両腕には、折り畳まれた二枚のタオルが収まっている。黙ってタオルを受けとると、そこから若い女性特有の香りが、手首を伝って込みあげてきた。
わずかに頭をふりながら、自分の身体を拭き始めるが、その香りのせいで、全身に月島がいるような錯覚を覚えてしまう。
「先生、きれいな身体ですね」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
すると月島は、わざとらしくその視線を、私の腰回りにまとわりつかせる。
「細いですよね。バレーをしているからですか? もっとぽっちゃりしていると思ってました」
「どこ見ているんだ」
「お尻と腰です。いけませんか?」
「いけませんかって……、そんなに私の身体を見たいのか?」
彼女は笑った。
つぶらな瞳は細く引かれ、わずかに口角はあがり、えくぼが浮かんでいる。もしかしたら、月島に視線を奪われてしまったことを勘づかれているのかもしれない。
「とりあえず職員室に戻ろう」
身体を拭き終え、タオルをボストンバックに突っ込む。
「この雨では、どうせ帰れないからな。職員室に冬用の電気ストーブがあったはずだ。まずは濡れた身体を乾かそう。具体的なことは、それから考えればいい」
バックを肩にかけて、職員室に向かう。月島も後ろからついてきた。
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