2.6

 丘花山駅で下車した私は、川柳かわやな通りという飲み屋街へと進み、とある店の入口に到着した。

多幸衛たきべえ』――間接照明に照らし出された、木目調の看板。その入口には門松のような飾りがあり、砂利の敷き詰められている小径が、店内へと延びている。

 ここは苫田井高校御用達のお店であり、もう数え切れないくらい足を運んでいる。メニューを見なくても注文できるほどだ。地元瀬戸内でとれる海産物が特徴で、ワタリガニの味噌焼きや、タコの炭火あぶり焼きといったものが並ぶ。

 この店が重宝されるのは、高校生やその保護者といった関係者がいないことが一番の理由だ。教師には守秘義務がある。職務上知り得た生徒の個人情報は、一生涯、誰にも漏らしてはいけないことになっている。

 無論、これはある程度、グレーゾーンのある決まりだ。

 朝から晩まで、一日中学校で仕事をしているのだがら、自然と話題は学校のことになってしまう。個人情報を一切使うことなく会話をすることはできない。だからこのようにして、情報をある程度しゃべっても大丈夫なところが、酒宴の場として選ばれるというわけだ。

 ――18時か。

 腕時計を確認する。すでに約束の時間から30分は遅れている。部活指導が長引くことは言っていあるから問題ないのだが、罪悪感がなくなるわけではない。

 砂利道を進んで店内に入ると、店員さんへの挨拶もそこそこに、会場へと真っ直ぐ進んだ。襖越しに騒々しい声が聞こえてくる。飲み会はもうすっかり盛りあがっているようだ。

「おお、我が苫田井高校の主役だ!」

 襖を開けると、真っ赤になった香川先生が歓迎してきた。

 見れば先生方が、いくつかのグループに分かれている。入口の左側には、花本先生が滔々と教育論を語り、右奥には香川先生を中心とした、中堅どころの先生方が、これまた教育論について語っている。私は花本先生のグループに混ざろうとしたが、

「まあまあ、私の相手をしてくださいよ」

 香川先生に連行されてしまう。

 私は先生の近くに座りながら、訪れていた店員さんにビールを注文する。

「国立先生わぁ、私と違って女子生徒から大人気ですが、そのままでいいのですかぁ!?」

「まだ30分しか経ってないのに、もうこの完成度ですか……」

「私わですねぇ? 国立先生があんまりにも禁欲的で修行僧みたいだから、心配なんですよぉ」

「私が修行僧?」

「そう! やせ我慢がすぎるんですよ、先生わっ!!」

 店員さんが運んできたビールを受けとると、香川先生と乾杯した。あっという間に香川先生のジョッキは空になり、「お兄さん、もう一杯」と追加注文を行う。

「多崎教頭先生の結婚相手を、先生だってご存じでしょぉ!?」

「ここの教え子さんと結婚されたんですよね」

「そうっ! そぉーう! その通りっ!!」

 空のジョッキを、激しくテーブルに置く。これ以上、店内のものに傷をつけないようにと、やんわりジョッキを引き離す。

「私わですねぇ? こう、先生のような人に、結婚して幸せにですねぇ?」

「そろそろペースダウンしませんか? 明日も仕事ですし――」

「――あっ、明日わここにいる誰だって仕事なんですよぉ! 嫌でもみぃーんな働くんですからねぇ!」

 どちらかといえば、香川先生は生徒からの人気がない。物理という科目を教え、しかもテストが厳しく、会話もオブラートに包んだりしないから、嫌厭されることが多い。だが、さっきの会話からも分かるように、本当は他人思いで、気前のいい先生だったりする。

「そりゃぁーねぇ? 私わ嫌われものですよぉ? 生徒と仲良くなんて柄じゃないですからぁ! 学校わぁ、生徒にとって必要最低限の知識・技能を教えればいいんですよぉ! そんな必要以上に仲良くなることないじゃないですかぁ! やせ我慢して、聖人ぶって、それでどうなるって言うんですかぁ! 国立先生聞いてますぅ!?」

「聞いてます、聞いてます」

「先生っつったって、しょせん人間なんです! つまりですねぇ? 生物としての摂理に逆らえないんですよぉ! 食欲・性欲・睡眠欲! 国立先生みたいにアプローチされたら、これ、何にも起きないほうが変なんです!! 生徒だっておんなじよぉーに、人間ですからねぇ! 惹かれ合うこともあるでしょぅ! え? 分かりますかぁ!? 分からないって言うんですかぁ!?」

「分かります。分かります。ええ、ほんと、正論です」

 香川先生をなだめていると、月島の顔が浮かんできた。

「だったらぁ、遠慮してわぁ、いけませんっ! 先生なんてただの肩書ですよっ! 分子レベルで見たら、人間なんてみんな同じっ! 配列と機能が違うだけっ!」

「分子レベルだけで見たら、大抵のものが同じではありませんか? 人間に限らず」

「そおぉーじゃないんですよぉー! 肩書なんてものに振り回されて、やりたいことができなかったら、意味がないって言っているんですからぁ!」

「はい、すみません、はい、そうですね」

「あのですねぇ? 多崎先生わぁ、どうお考えか知りませんがぁー、私わ花本先生よりも、女子高生のほうがいいと思うんですよぉ。だってですねぇ? 同業者と結婚してしまったら、もうこれ仕事の愚痴が被って、自宅でもしっちゃかめっちゃか! やれ、お前の教育論は古いだとか、やれ、自分の子育てはできないのかって、もうねぇ?」

 ちなみに香川先生は、他校の先生とご結婚されている。

 校外研修の場で、今の奥さんを見つけて、一目惚れしてしまったらしい。その後の顛末は推して知るべし。

「これわぁ、ですねぇ! 心からぁ国立先生のためをっ、ひっ、将来を願って、あぁえぇてぇ、わたしわ、あぁーえぇーてぇー、敢えて苦言を――」

「――面白そうなお話ですね。参加してもいいですか?」

 肩口から、女性の声。

 背中に怖気を感じながら、ゆっくりと振り返ると、頬を赤らめた花本先生がいた。その背後には、酔いつぶれて動けなくなっている先生が、死屍累々の様相を呈している。四月の歓迎会の席で判明したのだが、花本先生は、えげつないほどの酒豪。そこで勝負を挑んだ人間は、すべて返り討ちに遭っている。

「あ、じゃあ、私は」

 香川先生はジョッキを回収しながら、そそくさと別のグループへと移動していった。

 驚くべきことに、花本先生と二人だけのシチュエーションになっている。こんな嬉しいことはない――はずなのだが。

「国立先生は、女子高生がお好きなんですか?」

「いえいえ、そんなことは決してなくてですね? これは不可抗力と言いますか、香川先生のせいといいますか、ここは花本先生のご理解とご協力を賜りたくてですねっ?」

「私は若くない、ということですね?」

「ちっ、違います! 私は花本先生が大好きですよ、ええ!」

「あら嬉しい。だったら私のお酒は断らないですよね」

 彼女は肩に肘を乗せてきた。その重みや感触が、私の冷静な思考を奪っていく。

「どうぞ。お注ぎしますよ」

 どこからともなく花本先生はジョッキを取り出し、机に置いた。ビールならまだ倒れることはない。そう安堵するのは早計だった。

 先生は、なみなみと日本酒で満たされた徳利を、ジョッキのうえでひっくり返した。日本酒がジョッキに注がれ、米麹のいい香りが立ちのぼってくる。

「では乾杯」

「……花本先生、さすがにこれは――」

「――国立先生? 私のお酒が飲めないんですか?」

「はっ、はい! 喜んでいただきます!」

 私は、しずしずとジョッキを持ちあげ、ゆっくりと口に流し込んでいった。その横で、楽しそうに微笑む花本先生。悪魔が鬼の形相をしている。私は泣きそうになりながらジョッキを空にした。意識はもうろうとし始め、視界もぐにゃりと歪んでいる。

「さすがは国立先生ですね。じゃあもう一杯」

「は、花本しぇんせ……ま、待って、お水を……」

「仕方ありませんね」

 彼女は店員さんを呼び出すと、焼酎お冷2合を5本お願いします、と追加注文した。

「し、焼酎は――」

「――焼酎はです。国立先生はご存じなかったんですか?」

「いやっ、いやぁ、それは違い、ます、よ……」

「焼酎はお水です。そうですよね、香川先生?」

 遠くの島に避難していた香川先生に向かって、大声を出す。するとやまびこのように「そうです」と声が返ってきた。

「物理の先生がおっしゃるんですから、間違いありませんね」

「花本先生、土下座でも何でもしますから、ほんともう勘弁してください」

「すいませーん、焼酎2合、さらに5本追加で」

「花本先生っ!?」

「何でもするって言ったじゃないですか。だからお水を飲んでもらおうって」

「ひ、人でなし!」

「もしかして先生は、お水すら飲めないん言うんですか? そんなに情けない人だったんですか?」

「いえっ! そんなことはありません!」

「じゃあ、今夜は楽しみましょう」

 私のジョッキに焼酎を注ぐと、それを優しく握らせて、そのまま口に運んでくれる。これが素面であれば、どれほど幸せだろう。そんなことを考えるや否や、私の意識は、夢へと飛び立っていった。

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