6.4

 ばたん、と車のドアを閉める。

 運転席の扉に背中を預けたまま、しばらく動くことができなかった。あと少しでアパートにたどり着くというのに、歩く気力が湧いてこない。

 数学の授業。

 お昼休みの時間。

 男子バレー部の指導。

 どの生徒も遠巻きに私を眺め、まるで腫物に触るような態度だった。私からどれほど話しかけようとも、向こうでこちらを避けてしまう。授業では、ただ自分が独り言をしゃべっているようで、生徒たちは本気で聞いてくれない。いつもならお昼休みに声をかけられるのに、一人で食事をとるしかなかった。放課後の部活指導も、私がいなくても部員たちが勝手にやっている、そんな一日だった。

 まるで幽霊ではないか。

 自分には自分が見えているのに、他人からは見えていない。声を出しても、身体を動かしても、どうにもならない。これほどの無力感を覚えたことは、一度もなかった。生徒たちの誤解を晴らそうとしても言葉が届かない。せめて嘲笑でもぶつけられれば、存在を感じられたのに。

 とりあえず部屋に戻って横になろう。目を閉じてすべてを忘れたい。私はボンネットに手をつき、身体をおし出すようにして、自宅へと向かい始めた。

「国立先生、お帰りなさい」

 すると入口から、月島の声がした。

 苫田井高校の制服を身にまとい、背中を扉に預けながら、両手で買い物袋を握っている。

「今日は早かったんですね」

「……何しに来たんだ」

 私はゆっくりと近づいていき、彼女の目の前に立った。

「病み上がりだから心配になって来ました。部屋に入れてください」

 月島は扉から背中を離し、ドアノブへと視線を向ける。

「久しぶりの学校はどうでしたか? 授業はうまくいきました? バレー部の指導は充実しましたか? 生徒とコミュニケーションはとれました?」

「一体、どんな神経をしていたら、そんな台詞が言えるんだ」

「ずっと私がいなかったから寂しかったですよね? 食事も大変だったですよね? それとも花本先生が来ないから嫌でしたか?」

「帰ってくれ」

「嫌です。部屋に入るまで帰りません」

「もう私を困らせないでくれ」

「私を部屋に入れてくれれば、先生は困りませんよね?」

 にこにこと笑顔を浮かべている。まるで歌でも歌っているように話し、そのたびに身体を左右に揺らす。この状況が楽しいらしい。

「それとも私が怖いですか? うっかり入れたら、また襲われるかもしれないって」

「私をいじめるのが、そんなに楽しいのか」

「安心してください。もう先生を襲ったりしません。だって元気になっちゃいましたから。腕力で負けてしまいます」

 後ろ手を組んだまま、私の顔を、上目遣いで覗き込んできた。

「どうしたら入れてくれるんですか? 勉強で分からないことがあるから教えて欲しいって言えばいいですか? それとも恋愛相談したいって言えばいいですか?」

「駄目だ。何をしても」

「胸を触わられたって学校に訴えればいいですか? 自宅に連れ込まれたって言えばいいですか?」

「……もう言ったんだろう」

「あ、そっか。そうでしたね」

 悪びれもせず、舌をちょこんと出す。

 私は月島を無視して、家の鍵をドアノブに差し込んだ。ゆっくりひねると、がちゃり、と音がしてくる。

「先生? いいんですか? 私、入っちゃいますよ?」

 後ろから嬉しそうに話しかけてくる。

「……よくない。が、抵抗する気力も起きん」

「じゃあ、お邪魔します」

 月島は、私より先に、部屋へと飛び込んでいった。

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