第58話 見えなかった感謝
三途の川のほとりには、今日も冷たい霧が立ち込めていたが、その中には何か寂しさと後悔が混じっていた。少女は、今日訪れる魂が、生前に感謝の気持ちを伝えられなかった者であることを感じ取った。その伝えられなかった思いが彼を縛りつけ、この地に導いたのだろう。
「今日やってくる亡者は、感謝を伝えられなかった者だ。」
脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。感謝――それは言葉にすることで初めて伝わるものであり、またそれを伝えられなかった時には、深い後悔をもたらす感情でもある。彼がその後悔から解放されなければ、魂は安らぎを得ることができない。
霧の中から現れたのは、中年の女性だった。彼女の表情には深い悔恨と寂しさが刻まれており、目には涙が滲んでいた。彼女は、生前に大切な人に感謝の気持ちを伝えられなかったことを悔いているようだった。
「彼女は、生前に多くの人から愛を受けていましたが、その感謝を伝えることを怠り、それを深く後悔しています。その思いが彼女をここに留めています。」
脱衣婆の説明に、少女は彼女の表情をじっと見つめた。彼女が抱える後悔と未練の重さが、その魂を深く縛りつけ、今もなお感謝を伝えられなかったことに苦しんでいることが伝わってきた。
「あなたは、誰に感謝を伝えられなかったのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに女性の心に届くように響いていた。女性はしばらく何も答えず、ただ地面を見つめていたが、やがて震える声で話し始めた。
「私は……母に感謝を伝えられなかった……彼女はいつも私のそばにいて、何も言わずに支えてくれていた……でも、私はその優しさに気づかず、感謝の言葉を伝えるどころか、時には冷たく接してしまった……彼女がいなくなってから、その愛の深さに気づいた……でも、もう遅い……」
彼女の言葉には、深い後悔と無力感が込められていた。彼女は、生前に愛する人への感謝を伝えることを怠り、その愛の深さを失って初めて知ったのだ。
「あなたが抱えていたのは、母への感謝を伝えられなかった後悔と、その愛に気づくのが遅すぎた悲しみだったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼女がその感情にどのように囚われ、何を感じてきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そう……彼女がいなくなった後に、その温かさを思い出すたびに、自分の無関心が悔やまれる……どうしてもっと早く気づけなかったのか……どうして感謝の言葉を伝えられなかったのか……それが私の心をずっと締め付けている……」
彼女の声は震えており、その言葉には深い孤独と後悔が感じられた。彼女は、母への感謝を伝えられなかったことを悔い、その未練が魂を縛りつけていることを理解していたのだ。
「感謝の気持ちは、たとえその言葉が届かなくても、心の中で伝えることができます。あなたが母への感謝を抱き続け、それを心の中で語りかけることで、その愛は永遠に続くでしょう。感謝の思いは、魂を繋ぐ力となるのです。」
少女は彼女に向かって静かに語りかけた。彼女がその後悔を昇華し、心の中で感謝を伝えることで魂の救いを見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私は直接伝えることができなかった……それが私の一番の後悔なんだ……」
彼女の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と後悔が込められていた。彼女は、感謝を伝えられなかったことが、自分の罪であると感じていたのだ。
「直接伝えられなかったとしても、その思いはあなたの中に生き続けています。あなたが母への感謝を胸に抱き、その愛を自分の人生に活かすことで、母もまたあなたと共にいるでしょう。感謝の思いは、決して遅すぎることはありません。」
少女は彼女に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼女が母への感謝を心の中で伝え、魂を癒す力を得られるようにとの祈りが込められていた。
「そうか……たとえ直接伝えられなくても、私の感謝は彼女に届くのかもしれない……彼女が私を愛してくれたように、私も彼女を愛し続けることで、その感謝を形にできるのかもしれない……」
彼女の言葉には、ほんのわずかに未来を見据える光が感じられた。彼女は、感謝の言葉が届かなくても、その思いが永遠に繋がることに気づき始めていた。
「感謝の思いが、あなたと母の魂を繋ぎます。その思いを胸に抱き、彼女の愛を糧に生きることで、魂は安らぎを得るでしょう。」
少女は彼女に対して力強く語りかけた。彼女がその後悔を超え、感謝を胸に抱き続ける力を得られるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼女は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……母への感謝を胸に抱き、その愛を自分の中で生かしていきたい……」
彼女の言葉に、少女は微笑んだ。彼女が感謝を抱き続け、それを力に変える道を選んだことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼女の姿を包み込んだ。彼女の表情は次第に穏やかになり、感謝の思いを抱いたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼女の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼女の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「感謝は言葉だけでなく、心に刻み続けることで伝わります。その感謝が人と人を繋ぎ、魂を癒す力になるのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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