第56話 手放せない執着

三途の川のほとりには、今日も霧が深く立ち込めていたが、その霧の中には、何かに固執し続けた魂の苦しみが漂っていた。少女は、今日訪れる魂が、生前に手放すべきものを手放せなかった者であることを感じ取った。その執着が彼を縛りつけ、この地へと導いたのだろう。


「今日やってくる亡者は、執着を手放せなかった者だ。」


脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。執着――それは人を突き動かす力にもなるが、時に魂を縛りつけ、成長や解放を妨げる鎖ともなる。その鎖を断ち切らなければ、魂は自由を得られない。


霧の中から現れたのは、裕福そうな装いをした中年の女性だった。しかし、その豪華な服装とは対照的に、彼女の顔には深い不安と未練が刻まれていた。彼女は生前、何かに強く執着し続けたが、それを手放せないまま命を終えたのだろう。


「彼女は、生前に多くを手に入れましたが、その一方で何かに執着し、その執着が彼女の魂を縛り続けています。」


脱衣婆の説明に、少女は彼女の表情をじっと見つめた。彼女が抱える執着の重さが、その魂を深く縛りつけ、今もなお解放を阻んでいることが伝わってきた。


「あなたは、何に執着してここに来たのですか?」


少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに女性の心に響いていた。女性はしばらく何も答えず、ただ震えるように立ち尽くしていたが、やがて小さな声で話し始めた。


「私は……地位や財産を失うのが怖かった……それらを守るために、どんな手段を使ってでも手放さないようにしてきた……でも、気が付けば誰も私の周りにいなくなっていた……」


彼女の言葉には、深い孤独と後悔が込められていた。彼女は、自分の財産や地位を守ることに固執するあまり、人との繋がりを失ってしまったのだ。


「あなたが抱えていたのは、財産や地位への執着と、それがもたらした孤独だったのですね。」


少女はさらに問いかけた。彼女がその執着にどれほど囚われ、何を失ってきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。


「そう……私はそれらが私のすべてだと思っていた……それが私の価値であり、私の存在を支えるものだと信じていた……でも、本当はそれらを守ることで、自分自身を見失ってしまったのかもしれない……」


彼女の声は震えており、その言葉には深い後悔と哀しみが感じられた。彼女は、自分が何を本当に大切にすべきだったのかを見失っていたことに気づき始めていた。


「執着は時にあなたを縛る鎖となります。しかし、それを手放すことで、魂は自由を得ることができます。財産や地位ではなく、あなた自身の心の中にある価値を見つけることで、魂は救われるかもしれません。」


少女は彼女に向かって静かに語りかけた。彼女がその執着を超え、心の中にある真の価値を見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。


「でも……私はそれらを失ったら、何も残らない……私には何もない……」


彼女の声は弱々しく、その言葉には深い恐れと無力感が込められていた。彼女は、自分の価値を外部のものに依存していたため、それらを失うことが存在の消滅だと感じていたのだ。


「あなたの価値は、外部のものにあるのではなく、あなた自身の心の中にあります。執着を手放すことで、新たな可能性が見えてくるでしょう。あなたが自分自身の価値を見つけることで、魂は解放されるのです。」


少女は彼女に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼女が執着を超え、自分自身を見つめ直すことで魂を救えるようにとの祈りが込められていた。


「そうか……私の価値は、私自身の中にあるのかもしれない……物や地位に頼らず、自分を見つけることで、私は変われるのかもしれない……」


彼女の言葉には、ほんのわずかながら希望が感じられた。彼女は、執着を手放し、自分の中にある価値を見つける道を歩む可能性に気づき始めていた。


「執着を超えた先に、あなた自身の真の価値があります。その価値を見出し、自分を大切にすることで、魂は救われるでしょう。」


少女は彼女に対して力強く語りかけた。彼女がその執着を手放し、自分自身を受け入れる力を得られるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。


しばらくの間、彼女は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。


「私は……その道を選びたい……執着を手放し、自分自身を見つけたい……」


彼女の言葉に、少女は微笑んだ。彼女が執着を越え、自分自身の価値を見出す道を選んだことに、少女は安堵した。


「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」


脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼女の姿を包み込んだ。彼女の表情は次第に穏やかになり、執着から解放されたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。


「ありがとう……」


彼女の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼女の姿は光の中に溶け込んでいった。


「今日の裁きから、何を学びましたか?」


脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。


「執着を手放すことで、自分自身の価値を見出し、魂は救われることを学びました。執着を超えた先に、自由と真の安らぎがあるのだと感じました。」


脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。


霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。

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