第48話 夢に見た場所
三途の川のほとりは、今日も淡い霧が立ち込めていたが、その霧の中にはどこか温かな気配が漂っていた。少女は、今日訪れる魂が、何か心の奥深くにしまい込んだ夢を抱いていることを感じ取っていた。それは生前に叶えられなかった夢――しかし、今もその思いが彼を支えているようだった。
「今日やってくる亡者は、叶わなかった夢を抱えている者だ。」
脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。叶わなかった夢――それは、人生の一部として心に残り、時に未練を生み、また時に希望や勇気を与えるものでもある。彼の心には、その夢が今も消えない灯火のように残っているのだろう。
霧の中から現れたのは、中年の男性だった。彼の表情にはどこか遠くを見つめるような切なさと共に、微かな微笑が浮かんでいた。それは、叶えられなかった夢に対する未練と、今もその夢を大切に思う心が入り混じっているようだった。
「彼は、生前にある夢を抱いていましたが、その夢を叶えることなく生涯を終えました。それでも、その夢は彼の心の支えであり、今もなお彼を支え続けています。」
脱衣婆の説明に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える夢の輝きが、彼の魂を照らし、その思いを今も守り続けていることが伝わってきた。
「あなたは、どんな夢を抱いてここに来たのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに男性の心に届くように響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ霧の向こうを見つめていたが、やがて懐かしむような声で話し始めた。
「私は……旅をしたかったんだ……世界中を見て回り、さまざまな景色や人々と出会いたかった……しかし、私は仕事や責任に追われ、その夢を叶えることができなかった……ただ心の中で、いつもその夢の景色を思い描いていたんだ……」
彼の言葉には、叶えられなかった夢に対する愛しさと、少しの未練が込められていた。彼は、生前に多くのことを優先し、そのために夢を手放さざるを得なかったが、その夢は彼の心の中で生き続けていたのだ。
「あなたが抱えているのは、旅への夢と、その景色を追い求めた思いだったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼がその夢にどれほどの情熱を抱き続け、今も心の支えとしているのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そうだ……夢を現実にすることはできなかったが、私は毎晩、その景色を夢に見ていた……海のきらめき、山々の静けさ、広大な草原……それを想像するたびに、心が温かくなったんだ……」
彼の声は穏やかで、その言葉には深い愛情と懐かしさが感じられた。彼は、自分の夢を現実にすることができなくても、その夢が彼に安らぎと希望を与えていたことを思い出していた。
「叶えられなかった夢もまた、あなたの一部です。その夢があなたに安らぎを与え、心を温めてくれたのなら、それはあなたの魂を豊かにするものだったのでしょう。あなたがその夢を大切に思い続けることで、魂は救われるかもしれません。」
少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその夢を大切に思い続け、それを魂の支えとして未来へ進むことができるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私はその景色を実際に見ることはできなかった……この夢がただの幻想だと思うと、少し切なくなるんだ……」
彼の声は少し寂しげで、その言葉には深い無力感と哀しみが込められていた。彼は、夢が現実にならなかったことに対するわずかな寂しさを抱いていたのだ。
「夢が現実にならなくても、あなたの中でその景色は生き続けています。あなたがその夢を大切に思い、心の中に抱き続ける限り、あなたの魂にとっての現実です。夢の世界は、あなたの心を豊かにし、永遠に輝き続ける場所なのです。」
少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼がその夢を心に抱き続け、自らの人生の一部として安らかに前に進めるようにとの祈りが込められていた。
「そうだな……たとえ見ることが叶わなくても、私の中でその景色は確かに生きている……それを失うことなく、大切にしていきたい……」
彼の言葉には、ほんのわずかながら未来へ進む希望が感じられた。彼は、過去の夢を現実にすることができなかったことに寂しさを感じながらも、その夢を心の支えとして生きていく決意を固め始めていた。
「あなたがその夢を心に抱き続け、人生を歩むことで、その夢はあなたの一部として永遠に生き続けます。夢があなたを照らし、支え続ける限り、魂は救われるでしょう。」
少女は彼に対して力強く語りかけた。彼がその夢を胸に抱きつつも、自らの道を進む力を見出せるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……夢を胸に抱きながら、心の中でその景色と共に歩きたい……」
彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が夢を手放すのではなく、心の中に大切に抱き続け、前に進むことを決意したことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、その夢を胸に抱いたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「叶わなかった夢も、心に抱き続けることで魂を豊かにします。その夢が私たちを支え、希望を与え続ける限り、魂は救われるのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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