第6話 忘却の亡者

朝霧が三途の川を覆う中、少女はまた新たな亡者が訪れるのを待っていた。これまでの裁きで、彼女は多くのことを学んできた。罪の重さ、救いの光、そして魂の選択。それらすべてが彼女を成長させてきた。だが、今日の裁きがまた新たな試練となることを、彼女はまだ知らなかった。


「今日やってくる亡者は、少し厄介だ。」


脱衣婆が静かに告げると、少女はその言葉に緊張感を覚えた。厄介な亡者――それが何を意味するのかを考え、心の準備を整えた。


やがて霧の中から一人の男性が現れた。彼は中年の男で、ぼんやりとした表情をしていた。彼の姿は、どこか現実感がなく、まるで霧の中に溶け込んでしまいそうなほど曖昧だった。


「この者は、すべてを忘れてしまっている。」


脱衣婆の言葉に、少女は驚きの表情を浮かべた。これまでにも記憶を失った亡者を裁いてきたが、この男性はそれ以上に、何かが欠けているように感じた。


「すべて……を?」


少女は戸惑いながら尋ねた。記憶を失うことは罪の重さから来るものだが、この男性はまるで自分自身が何者であるかさえも忘れてしまっているように見えた。


「彼の魂は、何も覚えていない。生前の行いも、罪も、すべてが霧の中に消え去ってしまった。」


脱衣婆は天秤を持ち上げ、男性の衣を剥ぎ取ろうとした。しかし、その衣はまるで手をすり抜けるかのように、実体がないように感じられた。天秤にかけられた衣もまた、重さを感じることができず、天秤の針は動かなかった。


「この者は、何も背負っていないのですか?」


少女はさらに困惑し、脱衣婆に問いかけた。これまでの裁きとは全く異なる状況に、彼女はどうすれば良いのかを考えあぐねていた。


「彼の罪や行いが霧の中に消えてしまったため、彼自身が何者かさえも分からなくなっているのだ。だが、それでも彼はここに来た。その意味を見出さなければならない。」


脱衣婆の言葉に、少女は考え込んだ。何も覚えていない魂をどう裁くべきなのか。彼がこの地に来た理由を見つけるためには、何が必要なのか。


「あなたは、何か覚えていることはありますか?」


少女は男性に問いかけた。彼の目は虚ろで、何も見えていないかのようだったが、少女の声に反応するように、かすかに視線を動かした。


「……何も……思い出せない……。」


男性の声は弱々しく、まるで霧の中に消えてしまいそうなほどかすかなものだった。その言葉には、深い喪失感がにじみ出ていた。


「何か、何か一つでも思い出してみてください。それが、あなたの魂を救う手がかりになるかもしれません。」


少女は必死に語りかけた。彼の魂が完全に失われてしまう前に、何とかしてその手がかりを見つけたいと願っていた。


男性はしばらく黙り込んだが、やがて何かを思い出そうとするかのように、眉間に皺を寄せた。彼の表情には、記憶の断片を追い求める苦悩が浮かんでいた。


「……何か……暖かい……光……それだけが……」


彼の言葉に、少女は心の中で何かが響いた。彼が覚えているのは、ただ一つの暖かい光。それが彼の生前にとって何であったのかは分からない。しかし、その光が彼の魂を導くかもしれないと、少女は感じた。


「その光は、あなたが愛していた何かではないですか?」


少女は静かに問いかけた。その光景が、彼にとっての救いであると信じたからだ。


男性は再び黙り込み、やがて頷いた。彼の目には、かすかな涙が浮かび、その光景を思い出そうとしているかのようだった。


「それが、あなたの魂を導く光です。その記憶を大切にしてください。」


少女は男性の手を取り、その光を思い出させるように、優しく語りかけた。彼の魂が完全に消えてしまう前に、何とかその光を手がかりにして救い出そうとした。


「ありがとう……。」


男性の声が、かすかに震えた。彼はその言葉を最後に、静かに消えていった。彼の魂がどこに向かうのかは分からないが、彼の中に残されたその一筋の光が、彼を導くことを願っていた。


「この者は、再び光を見出すことができるだろう。」


脱衣婆が静かに告げると、少女は深く息をついた。彼の魂が消えてしまわなかったことに安堵しながら、次なる裁きに向けて心を整えた。


「これからも、お前は多くの魂と向き合うだろう。その度に、お前の心も試される。だが、忘れてはならない。光は常に魂の中にある。」


脱衣婆の言葉に、少女は力強く頷いた。彼女の心には、確かにその言葉が深く刻まれた。これからも続く試練に向けて、彼女は成長し続けるのだった。


霧が再び濃く立ち込め、次の亡者がやってくる予感が漂い始めた。少女はその霧の中で、自らの役割を再確認し、静かに次の裁きを待った。

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